「お母さん・先生一年間有難う」子どもに代わって園長より

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お母さん、困らせていますか

「おなかすいた」という前に食事を与えていませんか
「暑い」とか『寒い』ということを感じる前に涼しくしたり、暖かくしていませんか。
「意地悪する友達」が周囲にいることを気づく前に仲良くすることといいすぎていませんか。友達と喧嘩を上手にさせていますか。
『話したくなる』前にゆっくり・大きく話してごらんとしゃべらせていませんか。
「犬や猫を見つけて気づく」前に「ほら犬・犬がいる、猫・猫見て』といいすぎていませんか。
『あぶない・ あぶない』 といいすぎていませんか。

 このようにわが子と触れ合う時に、相手は気づいていないから気づかせたい、見ていないから見させたい、自分は小さい時に困ったことがあったから辛いことを体験させたくない、かわいそうなこと辛いことをさせたくないといった考えでしつけていませんか。今、日本の社会は、様々な品物があります、またたくさんの刺激にあふれています。生まれてきた子どもたちは、食べるものがあり、欲しい品物があるのが当たり前、暑いときには涼しい場所にいるのが当然、、寒いときは着るものがすぐ手に入るという状態の環境も見られます。しかし、将来の日本では食べ物や品物などが少なくなって困ることに直面するかも知れません。そのように10年・20年先に子どもたちが困った時、自分の力で乗り切る力をもち、人類や地球を大切にして生きていって欲しいと願わざるを得ません。

 わが子を困らせることも親心・失敗させるのも親心、そして、困難を乗り切る力をつけるのが親心といえます。しかし、困らせたくない、失敗させたくない、孤独にさせたくないことを常に願うことで「生きる力」を奪ってしまうことを心にとどめていなければなりません。中学校や高校生活を終えた後の人生は楽しいことだけでなく、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、嫌なことのほうが多くあります。困難なことに出会い、乗り切った時に喜びや楽しみが与えられることを小さい時から気づかせたいものです。そのためには、自分の思い通りにならないことがある、困ったことが多い、失敗することも多い、悲しいこともあるという体験をすることといえます。辛いこと、苦しいこと、嫌なことを乗り切る経験のとき、一緒に考えたり、悲しんでくれたり、 苦しんでくれるお母さんがいること、困難を乗り切る考えや力を与えてくれる家族がいることで生きる力を持つことになります。

 必要なことは、自分で服が着れないときに、子どもの能力を見つけないで着させてしまうことを止めること。失敗を何度もさせて自分の力で少しでも出来たことを気づかせること。危ない・危ないといって子どもがやろうとしていることを禁止しすぎないこと。子どもが意欲を持っている時に言い過ぎて意欲を無くしてしまうことを控えることで自分から生きる力を身につけさせること。折り紙が折れないと言ったときに全て折ってしまわないこと。手先の発達が少しずつついているとき、やれる範囲で一緒に折ることで折れたという満足感をつけることで生きる喜びを与える場を体験させること。自分の言いたいことが伝わらない時じっくりと聴き上手になってあげること。しゃべれた喜びは聴き上手な家族がいることで話す意欲を味わうことになります。

 幼稚園・保育園・小学校の時に子どもの能力を見つめ、困らせ、失敗させること、そして一緒に乗り切る知恵を与え、生きる力を身につけさせたいものです。

園長  飯田和也

『わあ、上手』・『平気、平気』は共感ではない。

乳幼児の心情「言葉に言い表すことが出来ない喜怒哀楽・気持ち」を大人が理解し、その子に対して愛し方・触れ合い方の中で「共感」するという態度によって、子どもは相手を大切にする「思いやり」が育ちます。

 共感とは「他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解すること。同感。」広辞苑。「他人の意見や感情を全くそのとおりだと感じること、また気持ち。」と、国語辞典には書かれています。

 何故「共感」が大切かは、子ども同士のかかわりの中で道徳性が芽生え、思いやりを身につけるためです。友達とのやり取りの中でお互いが欲求を出すことで争いとなり、けんかになる場合があります。例えば、二歳ごろになると玩具を取り合うこと、自分のしたいことを言葉で伝えることが出来なくて手が出たりして喧嘩になります。けんかの場面で相手に言いたいことが通じなく悲しい、悔しい、辛い気持ちになっているとき周囲にいる大人が、言葉に言い表すことが出来ない気持ちを代弁してくれたり、共感されることで救われた感覚になります。また、相手の心情を教えられることで、相手を受入れること・許すこと・認める気持ちが芽生えてきます。この大人による共感によって自己主張することや忍耐すること、喜怒哀楽の感情を調整することを学習します。このように誰かが自分の心情を気づいて共感されることで社会的な人や事象とのかかわりの中で相手の気持ちに気づいたり、共感する態度を養ったり、自分の感情を抑えたりして人間関係の距離感やかかわり方を身につけていきます。

 しかし、喧嘩は全て良くないという考えで喧嘩している姿を見つけて、喧嘩両成敗と両方の意見を聞かないで決め付ける態度、貴方が大きいのだから許しなさい、両方とも我慢しなさい、いつまで喧嘩しているの・もういい加減に止めなさいという態度では道徳的発達のおもいやりという態度は身につきません。喧嘩の場面での叱り方やことばのかけ方を保育者として身につけることが求められます。

 この共感するには、いかに相手の気持ちを理解できるかが大切と言えます。相手からのサインを受け止めるアンテナがなければ全く共感できません。おかあさんの顔を描いたとき『見てみて』と子どもから言われた時『わあ、上手に描けたね』といった言葉は共感にはなりません。子どもはおかあさんの顔の中で優しい眼をいつも見ているから、やさしい眼を見つけて「優しい眼かけたよ。」とサインを出したかも知れません。また、子どもを怒る時に、お母さんは大きな口と怖い眼で怒っているのを見つけたから「怒っている時の怖い顔、描いたの見て」と伝えてきたかも知れません。相手の描きたいものを見つけ、描きたいものを具体的に工夫して努力して描いている能力に対して「○○がそっくりだね。色も形も工夫して面白い・すばらしい」という努力している姿を見つけて言葉をかけることで知的発達を保障する言葉に結びつきます。

 何故「共感されることが大切かということ」の一つに、人を受入れる生き方・相手の気持ちを大切にする思いやりを身につけること、相手の行動に合わせようと人を愛する態度と最も結びついていることになります。周囲から愛され共感される態度が多い保育からクラスの中では先生や友達の話を聞く態度が育ちます。しかし、共感されていない触れ合いが多いと人間関係の中で人との結びつきが少なく自己中心的で、なんでも自分でする自立しているが冷たい態度になりやすい。人の話しをきちんと聞く態度に結びつきません。また、成長しても人の立場を理解しようとしない、集団で踊る時でも自分勝手に踊って周囲にいる人と関係ないという生き方、全員が話しを聞いているのに勝手にしゃべる態度、相手が悩み・苦しみ・辛いことを訴えているのにじっくりと聞こうとしない態度になりやすいといえます。

 発達援助の中で保育者は時々「上手・上手」「大丈夫・大丈夫」「へいき・へいき」「痛くない・痛くない」と言う態度をする場面が見られます。乳幼児はやっと靴がはけた。紐が結ぶことができた。ハンカチで手を拭くことができたといった満足感や充実感で「できた」 というサインを出したとき「上手・じょうず」 という言葉だけではがっかりしてしまいます。 同じようにせっかく造ったお面が破れてしまって悲しいと思っているのに「 大丈夫・ 大丈夫」とか、プールで水が眼の中に入ってしみているとき「平気・平気」と言われて辛いと感じてしまいます。庭で転んで膝から血がでていて痛いと思っているとき「 痛くない・痛くない」と言われ悲しいと感じている乳幼児です。乳幼児は「工夫し努力してできたときうれしい」と感じるが言葉がでないこともあります。また、転んでしまい痛すぎて言葉に言い表すことができないとき、母親から離されて余りにも悲しすぎて言い表せないときのサインを見つけるのが保育のプロと言えます。

 共感をするときに、知能を共感することよりそれまでの努力を見つけて共感するということがあります。乳幼児から大人を含めて「頭がいいね」と言われすぎると自分にとってできそうなことには意欲を持つが、失敗しそうなこと、できないかも知れないと思う頭の使い方をしすぎて新しいことに立ち向かう力を弱くしてしまうことがみられます。ブロックで失敗しながらタワーを組み立て努力したこと、縄跳びも毎日転びながら積み重ねをした努力で跳べるようになったこと、この努力を見つけ、気づかせるときに一緒になって共感する保育から「人や物を大切に生きる力やおもいやり」を身につけ新しい出来事に対して立ち向かう力となります。

 乳幼児の心情を理解し共感することで「人を愛し思いやる態度」に結びつきます

園長  飯田和也

立たせようとするのでなく立ちたいという意欲を与える

 まだ立つことが出来ない子をなんとか立たせようという押し付ける働きかけでなく、自分から立ちたいと言う意欲を味わう場を作ることが重要ということを教えられました。それは、六歳の筋ジストロフィーの女の子との出会いからでした。筋ジストロフィーという病気のために立ちたくても立つことができない、歩くことも出来ない子どもでした。

 周囲の人々は何とか立たせようとしてマッサージに通ったり、 様々な努力をしても自分から立つことができない状態でした。そして時々会う機会が与えられことになり保育室でレストランごっこをしたり、車に乗ったつもりになるという自動車ごっこを して遊んでいる時でした。椅子に一緒に座り、膝の間に入って外を見ていると黄色い蝶が飛んできたときに、「あ、蝶ちょが飛んでいる」と言うと立てなかった女の子が自分から「蝶ちょ見たい」と言って、窓に身体を押し付けて必死になって立って蝶ちょを見ている姿が見られたのでした。

 この子は自分では立てないのに蝶ちょを見たいという意欲から自分で数秒間立っているという場面に出会い感動を覚えたのでした。また、次の出会いでは、同じく椅子に座って窓から見える山や畑や大きな木を見せていると、窓の下に小さなかわいらしい黄色い花が咲いていたのを私が見つけたとき「あ、黄色い花が咲いている」と言うと「見せて、見せて」とひじで必死に支えて窓枠につかまって見ようとする姿が見られました。この場でも女の子に対して、立たせようというのでなく「見たい」から立っているという場を保障することも大切と教えられました。

 さらに次の出会いでは、立つことが出来ないために床にごろごろと寝転がったり、座ってレストランごっこで遊んでいるとたまたま保育室の傍に、柿の木に真っ赤な実が一つ残っているのを見つけると女の子は「柿見たい」と言うので窓に近づき見ようとして窓を開けると、近くで茶色のきれいな小さな鳥が竹の棒の先端に止まっているのが見えました。この女の子でも手が届くような近くでピッピッと鳴いている姿を見つけると「捕って・捕って」と掴まえようとして窓枠に身体をぶっつけて一人で掴まり立って、「捕って・捕って」と手を出していました。

 この数秒間という間、女の子は茶色の可愛い鳥に対して手を出し、鳥を捕りたいために身体を全身で使い窓にしがみついて立っている姿を見ることが出来感動を味わったことがあります。このときも、この立つことも歩くことも出来ない女の子を立たせようということでなく、鳥を捕まえたいから必死に立っているという姿から押し付けるのでなく人間の持っている自分から○○したいという意欲・ 生きる力を気づかせることを子どもたちに気づかせることが重要と教えられたのでした。乳幼児に親として大事なことと思って触れ合う時、子どもの持っている無限の可能性を見つける眼をもつこと、そして、そのために子どもの眼や耳や口、手、足になれないが理解しようという心をもって触れ合う大切さをこの子から教えられました。

 しかし、この女の子は18歳近くになって出合ったときに、立つことも歩くことも出来ない状態で、母親にベビーカーに押されて会いに来たのでした。手を握り足に触ると骨は針金のように細く、身体はぐにゃぐにゃでおなかから半分に折れてしまうほど筋力が弱くなっていました。動くのは左手の指数本だけ「先生とパソコンを習ってやりとりしよう」 というと元気な明るい声で「先生頑張る」と言って別れました。その後母親から「イイダ先生に会いたい」と言って会いたがっていましたが体調を崩し亡くなりましたという報告があり、短い生涯の女の子でした。その時「生きる力」を教えられたこの子からの出会いを大切にした教育者になろうと思いました。

園長  飯田和也

相手はそんなこと望んでいませんよ

 保育所保育指針 第四章 指導計画作成の基本の中で「環境の構成」において環境構成には、子どもが環境にかかわりながら生じた偶発的な出来事を生かす側面とがあります。したがって、ある特定の活動を想定して大人主導で展開させるための環境ではなく、子どもの気づき、発想や工夫を大切にしながら、子どもと共に環境の再構成をしていくことが大切です。

 以上のように指針では、指導計画立案の時や保育実践をするに当たって、子どもの気付きや発想や工夫を大切にすることと明確に示されています。子どもの立場になれないが、相手に少しでも近づこうとする姿勢、そして、子どもの眼・耳・手・足になろうとすることで働きかける言葉や与える教材が変化していくことを六歳の女の子から教えられました。物を与えればいいという大人主導の態度だけでは相手に通じないこと、そして能力に合っていなければ合わせてあげる気持ちを持つことが大切と明示しています。乳幼児に対して、もっと頑張らないでどうするのと言う保育から、保育者の考えた物や教材、そして人や雰囲気が合っていなければ再度その乳幼児のために環境を見直し、能力に相応しいための環境に再構成することで生きる力が沸いてきます。相手の能力や気持ちに合わす事が子どもの意欲を出すには重要ということを与えられました。それは、筋ジストロフィーの女の子からでした。この子は転ぶと自分では身体を支えることができないため頭を保護する目的でヘッドプロテクターを着けていました。そのプロテクターには頭を保護するため鉛が入っていてとても重いものでした。立つことも歩くことも許されていないが何にでも挑戦しよう、頑張ってやりたいという生きる力を持っている子でした。

 ある日の保育室での出来事から今までの教育観を基から変える出来事に出会い心に残る場となりました。それは、それまで楽しいことを見せてあげれば喜ぶ、面白いことをしてあげれば嬉しいと思い込んでいる私でした。この考えが根本的に「貴方は間違っていますよ」『相手はそんなこと望んでいませんよ』ということを生涯持ち続ける大きなキッカケを与えられました。

 その日、保育室には白く厚い紙で子どもたちが作った「ウサギのヘリコプター」が置いてありました。それは子どもが手で持って落とすとくるくる回転してヘリコプターの二枚のプロペラの羽根のようで胴体にウサギの顔が描かれてウサギがくるくると回りながら落ちていく紙のおもちゃでした。ソレを見つけると『先生、見たい』と言うので一度落とすと、くるくる回るのを見て「自分もやりたい」と言うのでヘッドプロテクターを着けたまま抱き上げてウサギのヘリコプターを持たせるとウサギのヘリコプターは見事にくるくると回りながら落ちるのでした。『もう一回やりたい』というのでしっかりと抱いて持たせると嬉しそうににこにこと笑顔を私に見せるのでした。今度もゆっくりと抱いて持たせると同じようにくるくると回りながら落ち始めると『あっはは、あっはは』と楽しそうに笑うのでした。下までウサギのヘリコプターは回りながら落ちてぴたと停まると『もう、一回して』と言うので三回目も同じように抱いて持たせて落とすと『わっはっは・わっはっは』と大きな笑い声が響くのでした。

 しかし、そこには女の子が手からウサギのヘリコプターを落とすとヘリコプターのくるくると回るプロペラは全く見えていません。ヘッドプロテクターの重さのためにすぐに眼で追いかけることが出来ない女の子でした。私は、見せてあげれば喜ぶ、触ってもたせて落とせば楽しいと思い込んでいる自分の傲慢さ・「先生、先生といつも言われていると相手を見下して礼を欠く態度」思い上がり「つけあがること・うぬぼれる」の態度を持って子どもに接していることを気づかせられました。そこにはヘリコプターを落として楽しむことでなく、私に抱かれて肌と肌のぬくもりを与えられて楽しいから『もう一回して』という気持ちを見つけることが出来なかった今までの自分の教育観を見直すチャンスとなりました。そこで、改めてこの立てない子でも落として楽しめるウサギのヘリコプターとは何かを一生懸命考える場が与えられたのでした。立つことができない子が座っていても落として楽しめるヘリコプター、『そうだ、ソレは小さくて、軽くて持つことが出来る大きさ』ということを見つけている私でした。大きな厚い紙から小さくて・薄くて・軽い、この立てない子に相応しいもの「新聞紙」でした。この新聞紙のヘリコプターを立てない子に座らせて与えるとか細い指でそっと落とすとひらひらときれいに回り二人で『きれい』と歓声を上げて楽しむ場面ができるのでした。この小さくて軽くて周囲にいつもある環境を見つける眼と再構成の大切さをこの日から教えられたのでした。

 幼児期の教育で、乳幼児に対して多く教え・与えれば発達するという考えだけでは、一人ひとりの子どもの発達を保障することは出来ない。乳幼児の目線になって考えることの大切さを教えられたのでした。

 環境の構成は、目標をより具体的に設定したねらいや内容を乳幼児が経験できるように物的、人的、自然事象、ただの空間だけでなく愛のある雰囲気など総合的にとらえて環境を構成すること。しかし、乳幼児と共に環境の再構成をする眼を持つことが保育のプロとして重要であるということを教えてくれた六歳の女の子との触れ合いでした。

園長  飯田和也

お母さん「わが子のいいところ五つ」書いてみませんか

 大学生に「自分のいいところ五つ、直したいところ五つ。 お父さんのいいところ五つ、直したいところ五つ。お母さんのいいところ五つ、直したいところ五つ」を書く場面を与えたとき様々なことが教えられました。それぞれが書いている時間を見ていると、いいところをなかなか書けなくて直したいところをさっと書く人、また、いいところをすぐ書く人、お父さんのいいところが書けない人、お母さんのいいところをさっと書く人など様々な状況がありました。

 いいところを書くには、よく見ていないといいところは書けません。また、相手を受け入れる生き方をしていないと書けません。女子大学生の中にはお父さんとのかかわりが少なくて何を書いていいか理解できない場合もあります。お母さんの直したいこととして「心配しすぎ、口うるさい、過保護、家事に対しての注文、無駄な買い物など」が見られました。父親の直して欲しいところでは「自分の時代と比べる、厳しい、酒癖が悪い、自分中心な生き方、タバコや酒などに対して直して欲しい」という言葉がありました。父母のいいところとして「自分のことを心配してくれていること、相談に乗ってくれていること、何事に対しても一生懸命という態度、家族思い、自分のために料理してくれること、時々ほめてくれること」といった自分に対して愛している・認めていることなどいいところがみられました。このように親に対しては、観察し受入れていることを記入している文章がありました。しかし、気になったことに自分のいいところが書けない学生がいたことです。直したいことは書いてありましたが「いいところ」が書けないという学生でした。いいところを書くには『自分自身を受け入れないとかけません』そこで、その学生に「どこ出身」と聞くと「生まれは都会で中学校、高校と○○留学」ということでした。それは中学生の時いじめや人間関係につまずき学校に行かれなかったということです。そこで「中学校のとき寂しかっただろうね。高校生のとき苦しかったと思うが、悔しいこと乗り越えて大学生になったんだね」というとうなずく学生でした。 そして「今、困難を乗り越えて大学生になったんだよね」というとぴかっと光る眼になりました。改めていいところ書いてみたらというと「すぐに友達ができる、友達の相談を聞く、いやなことも我慢できる、優しい」と言った人間関係で辛いことを乗り越えて力をつけた自分を見つけ、自信をもって書き始めるのでした。

 このように子どもに困難を乗り切り発達する力があること味あわせるには、いいところを見つめ、子どもに気づかせることが大切と教えられました。
 一度、母親として「わが子のいいところ五つ・今、直したいところ五つ」をノートに書いてみてください。わが子を受け入れ、よく観察しているといいところが五つでも六つでも書けます。しかし、子どもを受入れないと「直したいところ」が多く出てしまいます。直したいところはチラッと見ただけで書くことが出来ます。周囲にいる人々をどのように受入れているか、認めているか一度確かめることになります。親として自分自身の生き方に自信を持ち、子育てで悩んだとき家族でお互いが「いいところを言える雰囲気」を作っているか確かめたいものです。家族全員で子どもを愛することを通して温かい雰囲気を味あわせているか見直すチャンスとして褒めあう場を作りたいものです。
 このように受け入れ・認め・褒める態度を子どもの前で示すことで温かい愛のある雰囲気が出来ます。それにより「生きる力」が育ちます。家族全員で一度いいところを言い合うときを見つけたいものですね。

園長  飯田和也

子どもの発達を見つめ、子どもに発達を気づかせ、親に発達を伝える

 幼児教育者として「子どもの何を大切にしますか」と問われた時に『子どもの発達』です。そして、ただ発達を理解するのでなく一人ひとりの発達は違っているという発達の特性として個人差を考え、乳幼児に一ヶ月前に比べると手先や身のこなし、言葉や考える力、人や物へのかかわりなど発達していますよ、貴方は無限の可能性をもっていることを気づかせてくれたのであなた自身に伝えるのが周囲にいる大人「親や先生」の義務責任ですと伝えています。乳幼児の発達を気づかないで早くできるようにすればいい、大きくさせればいいと眼に見えることに囚われた育て方に偏らないことが大切です。

 子どもの発達として「困難に出会っても乗り切る力」と『人に言われないで自分から○○する力』の二つをお母さんと一緒に考えたいと願っています。身体が成長すれば親の眼は安心し、身体が小さいともっと他の子のように背が伸びたり、体重が増えれば安心ということもあります。しかし、身体発達だけでなく精神の発達として考える力や自分で○○する主体性という考えを捉えていないと大人になった時に自分さえよければいい、嫌なことに対して避ける生き方や意志薄弱な態度になる場合、我慢が出来ないで辛いことに出会うと逃げる人、人に言われないと行動できない大人が目立ちます。忍耐がないために人の話しをじっとして聞くことが出来ない、順番が守れない、最後までやり遂げる体力と根気が育っていないといった状況があります。何故このような子どもや大人になってしまうか様々な原因があります。

 幼いときにじっと人の声や鳥の声を聴いているのに傍で親から『じっとしていないの』『早く歩いて』きれいな花が咲いているのを座ってみていると『いつまでボーとしているの』初めての場所で何の音・大きな音だな、たくさん人がいる・どんな人がいるのかな、変わった匂い、触ると危ないかなと判断がつかないでいると『この子は照れ屋さんだから』『怖がりなんですよ』『神経質で困ります』といった様々な場面が見られます。このような時に親や先生が勝手な判断で子どもの立場や能力を認めないで決め付けてしまっていることがあります。

 本当は子ども自身が自分の耳や眼や手や口や鼻で感じて考え、判断をしている場面です。小さい時にまだこの子は小さい・判断力もない・言葉もはっきりいえないので思考力も育っていないと子どもの精神の発達を見ない・見れない・見ようとしない大人です。

 「三つ子の魂、百までも」という一番重要なときに精神の発達を見つけるのが母親や先生です。小さい時に様々な発達していますよという子どもからのサインを見つける眼を持っていたいものです。この子が自分で見たり、聴いたり、匂いをかいだり、触ったりしているのを感じたら『○○だね』『面白い形だね』「冷たい水だね」『不思議だね』といった言葉をかけて子どもが自分で見た・聴いた・感動しているところを一緒に共感してあげて考える力、自分で見つける力を持っていますよということを気づかせることが発達を育てるための働きかけとして重要になります。

 子どもから子どもに「○○ちゃん上手にできるようになったね」、先生ならお母さんに「一ヶ月前に比べたらこんなにも○○できました」、お母さんならお父さんに『一週間前に比べたら○○になったよ』と具体的に伝えることで大きく発達する力を持っているわが子を信じてあげることです。夫婦で可能性を見つけることで子ども授かった喜びを味わって家族という絆を確かめたいものです。 
 このように幼稚園・保育園・ 学校で子どもたちの発達を見つめる子どもと子ども・先生と子ども・親と子どものかかわりが広がり深められれば素敵な日本になりますね。 

園長  飯田和也

子どもは親の鏡

  • 表情豊かで明るい子、親が愛情豊かで明るい生活
  • おはよう・有難うが言える子、親に感謝が多い
  • 文句ばかり言う子ども、親が家庭で文句が多い
  • なかなか朝おきることが出来ない子ども、親も寝坊さん
  • 野菜食べない子、親も野菜嫌いが多い
  • 卵嫌いな子、親が卵料理少ない
  • 猫嫌いな子、親も猫嫌いで触らないことが多い
  • 本大好きな子、親も本が大好きでよく読んであげる
  • 走ること好きな子は、親も走ることが大好きで一緒に運動
  • 人を叩く子、親も子を叩くことが多い
  • せっかちな親からノロノロした子が育つ

 このように子どもの好き嫌いや態度は、親の好き嫌いに似ていると同時に嫌いだから料理しない、だから食べないことなど環境によって子どもの発達が左右されることが理解できます。

 三歳になったわが子が「ママー、パンツ降ろせない」「 ママー、靴はけない」「ママ、」と泣き叫んでいるのを見て、この子は困難を乗り切る力を 持っていると信じることができれば、泣いてもこの子はきっと自分でパンツを降ろすことができる、くつを左右違うかも知れないがはく力を持っている、それは手先の力が発達してつまむことや握る力がこの二・三ヶ月で伸びてきているのを 見つけているので安心していますよ。ブロックを集中して工夫しながらはめたり、はずす力が出来ているので自分ひとりでできるのをお母さんは知っていますよ。また一人で熱中して殴り書きやクレヨンでぐるぐるしたり、友達の遊びをじっと観察する態度見つけているから、子どもに「自分で○○する」という可能性を信じていますよと伝えたいものです。

 しかし、子どもの能力や可能性を信じないと様々な能力を伸ばすことには結びつきません。 子どもの泣く所を見たり、聞くと不安になり、大丈夫かどうか心配で( 泣かないでね)と言葉をかけたり、手を出してしまうと子どもは心配と不安が大きくなり、さらに泣いたり、自分から動くことができなくなってしまいます。

 子どもの発達を捉える時、自分からという行動として、じっと聞いていたり、観察したり、真似することを見つける眼を周囲にいる大人には要求されます。このような行動を見ない、見れない、見ようとしないで、上手に造るとか、仲良くしてればいい、出来ているといった結果だけに重視しすぎた勝手な判断をしないことです。出来ないことに囚われて判断すると、泣いているだけで不安となり、その心配な態度が子どもに鏡になって写り、子どもも不安と心配が大きくなります。子どもが発達している能力を見つける眼を持つことが、大人として重要なのは、気づかせることで子どもが自信を持つことになるからです。自信を持つことで自立して何でも自分でやる力をもち、自分からという意欲に結びつきます。自分からという態度になった時に考える力が身につき思考力が育ちます。

 これから困難な生活が多い中で生きていくには、危険か・怪しい相手か見極める力が求められます。辛い時に具体的に乗り切る力を示し・説明は、自分の辛かった体験で乗り切った時のことを子どもに伝える能力を親が持たなければならない時代といえます。いいことだけでなくあなたには乗り切る力をもって欲しいと同時に乗り切り方をわかる言葉で伝えるのが親といえます。小学校や中学校になって、いじめられた時、勉強がわからないとき「頑張れ、頑張れば誰でも出来る」 「貴方なら大丈夫」 といった安易な励ましは差し控えたいものです。子どもが困難を乗り切り自分で生きる力を身につけるには、母親や父親の失敗例や苦労したとき「お母さんがいたから・ 友達のたった一言で救われた、お父さんも苦しかったけどおじいちゃんの助言で乗り越えたよ」など子どもにわかるように伝えたいものです。 

園長  飯田和也

生活の中で我慢が出来、自信をもつ生き方

 我慢が出来ないために友達に対して一言多かったり、友達が並んでいても横から入ったり、友達や先生が話していても聞かないで自分勝手に自分のことだけを話したり、クラスの中で全員が絵本や紙芝居を見ているのにぺらぺらと話していたり、最後までじっと我慢して○○するという態度が出来ない子どもが見られます。

 このようなことは子どもだけと思っていたら最近は大学生や大人まで目につくようになりました。小さい時から親や友達、先生からの触れ合い方・しつけなど環境や経験の結果と思われます。三歳ごろまでに大人から認められ、受入れられ、愛されることで我慢し、人を愛する自発的な行為が育ちます。しかし、乳幼児が自分でするという気持ちが育っているのに無視されたり、止められたり、愛されることが少ない育ちにより、自信を持ったという感覚がなく、自分でするという行為に結びつかない場合になります。この自信が持てないために自立できないことになり、周囲の環境にかかわる意欲的な行為が少なくなっている場合があります。

 三つ子の魂百までという言葉があるように三歳ごろまでどのような体験をしたかが問題となります。乳幼児の体験としてじっと母親の声を聞いたり、周囲の鳥の声や様々な音に対して乳児は自分で聞いています。 また、母親や父親の愛してくれる姿を一生懸命見たり、兄弟姉妹の行動を見たり、周りの赤ちゃんの泣き声や声をきいたりします。 そして、自分を可愛がってくれる家族の行為や保育者の行為を見つけ大好きな相手であれば真似しようとします。さらに面白いと感じることがあると(オー・オー) と声を出して感動する乳児になります。このような態度は聞いてとか見て、真似してということを親や保育者は言いません。しかし、 乳幼児は自分から見たり、 聞いたり、 模倣したり、面白い・おかしい・ 楽しいと感じて言葉や態度を自分から表出して思考力を発揮しています。 三歳ごろまでに十分聞いたり、見たり、 触ったりさせることで考える力を身につけることが親や保育者として最も大切にしたいものです。認められ、受入れられることで自分は愛されていると感じて自信を持つ生き方に結びつきます。

 このような三歳ごろまでの体験を元に親や保育者は子どもには様々な可能性があることを信じることになります。 しかし、 せっかちな親や何とか他の子どものように上手にさせよう、それも同じように教えたり、教材を与えて一生懸命頑張らせれば誰でもすぐにできるという考えの大人からの働きかけは、乳幼児にとって全て自信に結びつくとは限りません。ここで大切なことはお母さんや先生から多くのことを要求しません、一つでいいからできるような自信に結びつくような 働きをどのようにするかが重要になります

 例えば、自信を持っていないために集団での声は小さく、人前でオロオロと心配な態度をし、大人の顔色を見ている場合があります。絵も描きたいことが判らないため、遊びも遊び方が理解できない、話すことも話す内容が把握できないといった場合に大きな声でなくてもいいよ、描きたいところを一つでいいよ、遊び方も上手でなくていいよと具体的に自信をひとつ持たせるような働きかけをすることで自信を持つことになります。自信を持つことから自立して自分でするという意欲的な態度が見られるようになります。自分でするという言葉が出れば意欲となり表情も明るく、声も大きく、行動もテキパキとした行為に結びつきます。自信が自立、そして意欲となり生きる力に結びつくことを大切にするには、三歳ごろまでの行為で大人が押し付けるのでなく、自分から聞く・見る・真似する・面白い・楽しい・嫌だ・悲しい・という言葉や態度を見つめる眼を持ち、共感し見守る触れ合いをすることで認められ、愛されていることで我慢すること、そして共感や見守られ、受入れられる態度から自信となります。 

園長  飯田和也

「お母さん・先生一年間有難う」子どもに代わって園長より

 入園のころ、よたよたした歩きが一年経って走るようになり、じっと立ったままで他の子どもたちにかかわることも少なかった状態が、今では自分からちょっかいを出すようになり、食事もご飯粒を一つひとつつまむようにしか食べられなかったのが、パクパク食べるようになり、トイレに行くのにズボンを降ろすことやあげることが出来ないことが多かったのが自分で下着を見せることもないようにできるようになり、挨拶も出来なかったのがニコニコと笑顔で(おはよう)といえるようになるなど大きく発達する子どもたちが見られるのが三月といえます。このように一年間で大きく発達・成長した子どもたちの姿を見て園長としてお母さんや保育者の大きな努力があったからと子どもたちに代わって「ありがとう」 と言いたいものです。

 お母さんには、子別れができ親という字のように木の上に立って長い眼で見守って有難う、先生には、丁寧に繰り返し根気よく、わかるように具体的な言葉をかけて、できなかった時一緒に悔しがり、できた時に大きく喜んで共感してくれた態度に有難うという言葉を伝えたい、しかし素直にはっきりと言えない乳幼児に代わって、有難うと言葉に言い表すことが出来ない心情をお母さんと保育者に伝えたい園長です。子どもは自分を 愛している母親や保育者に自分の可能性を 見つけてくれた相手に対して感謝していると思います。四月から新しい保育者・先生になるかも知れないがこの一年間に自分のことを認め、受け入れてくれる保育者から褒められた具体的な箇所を一生の心の支えになって自信を持ったことになり自立できたと思います。

 小さな声でも挨拶が出来るようになったとき「挨拶できたね」と褒めてくれたこと、絵もぐるぐると描いていたのが「顔の形になってきたね」と受入れてくれたこと、オムツをしていたのが自分からおしっこしたい・ウンチしたいといえるようになって大きくなったねと安心した顔で認めてくれたこと、野菜嫌いだったが少し口に入れて食べることが出来大きくなったねと言葉をかけてくれたこと、ひらがな読めなかったのが「名前読めるようになってびっくりした」と驚いてくれたこと、そして「ひらがなで名前が読めるようにかけてもっと驚いた時の笑顔を 見せてくれた先生とおかあさんの温かく自分を 愛してくれた雰囲気は大きな生きる力になったと心から伝えたい子どもたちと思います。

 この一年間の発達した姿の原因の一つにおかあさんや保育者の失敗してもいいよ、様々な能力あることを信じたことがあったことと思います。多くのことを要求しなかったことも要因の一つと思います。しかし、子どもの可能性を信じることが出来ないと劣等感を与えたり、自分から挑戦しようという意欲が少なかったり、言われないと出来ないという態度に結びつく場合もあります。

 子どものいい箇所として見つけること、例えば「貴方はよく観察する力もあり、じっくりとまわりの音や友達や先生の声を聞く態度もあり、真似るは学ぶ、学ぶは創造力といった自分から良く見て、聴いて真似しながら自分なりに工夫する力もあり、素晴らしい可能性があると気づかせてくれたから信じることが出来た触れ合い」となります。

 子どもの発達に対して素直に喜びを表せる大人に囲まれた子どもは幸せと言えます。共に泣いたり、笑ったり、嬉しがったりする態度から愛されていると感じることができ、 人を愛する態度に育ちます。先生やお母さんから愛されることで先生や友達の話しをじっくりと聴く態度が育ちます。愛されているから忍耐する態度となり自分をコントロールする生き方の一つに結びつきます。この幼児期に家族や保育者から愛される態度により人やものを大切にすることで考える思考力と困難を乗り越える力を持つことができると信じています。この一年間に多くの発達を与えてくれた家族や先生へ、子どもに代わって「有難う」と言います。 

園長  飯田和也

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