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鬼よりもっと怖いお母さんの顔

 園の行事の節分が終わった次の日「園長先生、昨日、青鬼と赤鬼が園に来て怖かった、今年は豆をいっぱい投げて泣かなかったよ」「今年は、泣かないでがんばったね、大きくなったね」「園長先生!けれど、赤鬼や青鬼より、うちのお母さんのほうがもっと怖いよ」「どんな風に怖いの」と問いかけると「眼はギョロ・ギョロと口はパクパクして大きく,ガアーとものすごい声で鬼よりもっと怖いよ」「じゃあ頭から角が出てた」「うん、すごいよ、ものすごい大きな角がガアーと伸びているよ」こんな会話が次の日にありました。

 子どもの発達を考えると、世の中にはいいことだけでない・うれしいことや悲しいこと・怖いことなど様々な体験を通して大きくなっていきます。お母さんや先生は普段はとても優しい、可愛がってくれる、しかし、怒ったら怖い、怒られないように気をつけることなど気がついて生きていって欲しいと願うばかりです。

 何故お母さんは怒るのか、それは、子どものことを真剣に思い、将来、困難を乗り切るために生きていって欲しいとの願いと伝えたいものです。

・心からあなたのことを愛しているから怒ります
・将来のこと思うから怒ります
・子どもの幸せを願うから怒ります
・何度も失敗しないために怒ります
・一人で生きていって欲しいから怒ります
・人や物を大切にして欲しいから怒ります
・親が死んだ後、心配・不安だから怒ります

 親として子どもに対して、様々な思い・願いがあって子どもに伝えたいこと、大切にしたいこと、残したいことがあります。親として願いがかなっている場合は安心して見守ることができています。しかし、何度も同じ失敗することを繰り返すわが子の姿、親として身体のことを心配したり、勉強ができるように願ったり、人間関係で不安になったり、ひとりで生きていけるか見ていてできていないと少しは見守ることができています。しかし、何度も失敗したり、余りにも親の期待とかけ離れているとついに怒りたくなります。

 この怒らなければならないときに、許してしまうことは親の責任を放棄することにもなります。怒らないで自由にしていればいつかは気がついてくれるという態度は改めることです。大人になったとき、叱ってくれた・怒ってくれたことを「なぜか」思い出して同じ失敗をしないように気がつくことがあります。ほめられたことも心に残りますが、自分が失敗したことを本気で心配してくれた親の言葉や先生の態度により注意することがあります。

 卒園児から「園長先生に火遊びを注意されたことが一番怖かった、一生火遊びはしないと思った」「友達の大事なものをとってしまい、うそついて怒られて怖かった」と心に残り一生自分は気をつけなければならない態度となります。また、親から叱られて家の外に出されて「もうしません」と泣いたときの真っ暗闇での不安感を持ったことで悪いことはしないと心に誓ったこと、何度も忘れ物したり、時間を守らなかった時ついに母親に怒鳴られて「もうしません」と謝ったことでその後の生き方が変わった経験を思い出したいものです。しかし、いつも怒りすぎは注意ですね。

 親・先生として相手のことを大切に思う気持ちを素直に伝えること、そして怒ることも生きる力のためには重要な態度として必要といえます。「鬼よりもっと怖いお母さんの顔だよ」という心に残った言葉から辛く・苦しい時を乗り切る力の元のひとつと改めて思いました。参考にしていただければ幸いです。 

園長  飯田和也

みんなの中に入れないと決めつけないで、お母さん。

 家庭で父や母と一緒に安心している生活から、急に大勢の子どもたちがいる集団に、すぐ入ることがなかなか出来ない時の子がいる事を理解してあげたいものです。大勢の子どもがいても安心して入れる子は「兄や姉がいたり、知っている子がいたり、母親がおおらかな性格であったり、何でも自分からしようという自我が育っているなど」が見られます。

 しかし、子どもたちの大きな声を聞いたり、聞きなれない音楽がなっていたり、家と異なった広い空間、たくさんの物や激しく動き回る子どもや大人、強い刺激のある光景、においをかぐことで不安感となり、母親にしがみついたり、大きな声で泣いたり抱かれようとする子が時々います。

 子どもが大勢いるような場にすぐとけこめる子には、母親としてけがをしない様に子どもに背中を向けないで、可愛いなあという思いで距離を持って見守ることです。しかし、この大勢の子どもたちにかかわれない子に対して偏ったとらえ方をしない。子どもの限りない可能性を見つめる眼を持つ母親でいたいものです。

 私は、母親にしがみついている子に対して「ここで安心して遊んでもいいのだよ」という気持ちを伝えることを大切にしています。母親に対しては、「この子は集団に入れない子」「恥ずかしがる子」「話せない子」「できない子」と決めつけないで能力を見つけ、信じることですよと伝えています。また子どもに対して子どもに聞こえるような声で誉めます

「この子はおかあさんの声と他人の声を聞き分ける力、家と違った物があり広さも異なり、においも違う、すべて自分で違いを鋭く気づく感性の豊かなのでサインを出しています。お母さん、家と違うよと、言葉では言い表せない喜怒哀楽の心情を泣いたり、怒ったり、隠れたり、しがみついたりしている時ですよ。素晴らしい感性豊かな、自分で○○する主体性を身につけている可能性がいっぱいある子でいい子ですよ」としがみついて顔を隠しているが聴いている子に伝えます。

 このように二人に伝えたあと、集団の場から最も安心する場所に連れて行き、「見ているだけでいいよ・声を聞いているだけでいいよ・においをかぐだけでいいよ」と離れすぎず・近すぎない場所、そして子どもが嫌がらない範囲を見つけてそばにいます。その時、心から可愛いなあという思いで見守り、「おもちゃ少し触ってもいいよ」とサインを出します。距離を置いた中で母親と一緒に遊ばせることをすると、少しずつおもちゃに触ったりします。

 そこで「よく遊び見てるね」「おもちゃ触れたね」と言って距離を近づけ、ボールに触っている場面であれば子どものそっとさわる触り方を真似すると「おや」というサインを出し、コロコロと転がすと自分もやり始め、くるくると回すと今まで緊張していた子がにこっと笑ったりします。さらに近づきボールをトントンとついたり、転がすと安心してそばに来て遊びます。急いで早く集団に入れ、慣れさせるのでなく、今はそばにいるだけ、見て居るだけでいいよという態度から「気になるあいつ」になります。ここで初めての場,人に対してこの人は自分のことを受け入れ・認めてくれる人という安心感が出てきます。

 このような安心する相手が新しい集団との橋渡しをすることが必要になります。この愛される雰囲気を与えたあと「絵本見に行こうか」といって手を差し伸べるとさっと手をつなぐ子どもがいました。お母さんは「母親と父親としか手をつないだ事がないのに感激です」という母親との場面になりました。新しい場で子どもは、自分のことを「どのように言われているか」を敏感に感じています。この子「照れ屋なんだ」というと自分はテレても当たり前、仕方ないと劣等感を感じてしまいます。

 人見知りをしている場面でも「感性が豊かだね、素晴らしい能力がありますね」といった言葉をかけることで愛されている雰囲気が与えられ、母親は子どもの可能性を見つけ、秘められた能力を信じることができるようになります。母親が安心し愛する触れ合いで子どもは発達が保障されます。 

園長  飯田和也

国語の先生だった人との会話から

 小学生や中学生の中で国語が好きでない、また、高校生で国語が得意でないという言葉を時々耳にします。中学校や高校の校長先生に学校の成績順位をあげるには、英語や数学で得点をあげるよりも、国語の成績を上げるのはなかなか難しいですねという言葉も耳にします。そこで国語の先生だった人に国語の成績をあげるにはどうしたらいいですかと問いかけをしました。

 その先生は「昔から三多と言って多く本を読み、多く考え、多く書くこの三つがポイントともいわれています。」という答えを聞いて小さい時から多くの絵本に親しみ、豊かなイメージを広げ、考える時を持つことで国語の得意な子になる原点があると納得しました。さらに大学生の中に文章がうまく書けない、相手に伝える文が出来ないことが気になっていましたので「高校までの国語の指導のポイントは何ですか」と問いかけると「文章は、だらだら書かないこと、一つの文に一つのことを書くことも大切と伝えています」という返事でした。

 だらだらと長く書くこと、それも書きたいことが判らない文が見られます。書きたいことを書くためには、書きたいことを観察する眼を 持たないと何を書いていいか判らない。そこで「書くことが出来るようになるには、どうしたらいいですか」と問いかけると「小学校や中学校、高校生までに国語の教科書で使われている小説家の文章を写すことも大切、また有名な小説家の短編小説などを写すことで言葉を覚えることもあります」という答えも返ってきました。

 その後、小学校の国語の宿題について話題となりました。私が時々使っている(勉強とウンチは人に言われてするものではない)という言葉は小学校の校長先生を退職し、子どもたちに勉強を教えている人が「孫が国語の本読みの宿題として○○回読んだら家の人に印鑑か○をもらってくるように」と言う宿題に対して(教科書の中で心を込めて読んだという宿題なら印鑑を押すが、そうでないのには押さない)と印鑑を押さないで学校に行かせたそうです。

 すると先生から「どうして押してもらわなかったか」家に帰って聞きなさいといわれて帰ってきた。そこで「勉強とウンチは人に言われてするものではない」とクラスで言いなさいと言われて、次の日この言葉を教室で話したらクラスで納得した場面になったそうです。この人から言われないで自分から読むこと、勉強することが大切で、生きる力を育てるには重要です。

 しかし、話題は「心を込めて読んだところを共感する触れ合い」その心を込めるには、何度も声を出して読むこと、考えて読むこと、作者の気持ちになること、イメージを広げること、句読点を大切にすること、せりふがあれば交代すること、間は魔物といって間がないのを間抜け、ありすぎるのを間延びというように「間」を大切にする読み方、感情を込める読み方など話題が盛り上がりました。

 小学校の国語の本読みの宿題で技術「姿勢・発音・読み方など」を気づかせるための宿題も大切ですが、心を込めて読んだ箇所を家族が一緒に共感することで(本が読めた喜び、そして家族が一緒に具体的にほめたり、問いかけたり、励ましたり、慰めてくれたことでもっと読みたいという意欲、工夫して感情を込めたり、句読点などを自分なりに見つけたことをほめられたことで国語の宿題が満足に出来た充実感が与えられ考える力が育つことになると思います。

 このような国語の宿題を通して本を読む技術だけでなく家族とかかわる温かい雰囲気が与えられることで、子どもは生きる喜びとなり、辛い時、苦しいことに対して家族が見守ってくれているという感覚になり困難を自分で切り開いていく思考力、生きる力になることを国語の先生だった人と確かめ合うチャンスとなり感謝しました。 

園長  飯田和也

感性や考える力を身につける

 ある日、飛行機に乗ったとき、飲み物を 運んできたアテンダントが、わたしの締めていたネクタイのトトロを見て「気になっていました。私もトトロが好きなんです。 素敵ですね」 と言葉をかけてきたので「ありがとう」と言った後、彼女はすぐさま「どなたがお選びになりましたか」という問いかけがありました。 ほとんどの大人は「かわいい・いいですね。面白い」という言葉で終わってしまいます。しかし、アテンダントは接客のプロとして人を大切にする、相手を思いやるという技術や知識、心遣いがありました。 そこで「教え子からのプレゼントです」というと『いいですね。今日はお仕事ですか』そして・・・。このように話が弾むのでした。

 私は、トトロのネクタイを園長の小道具として時々身に付けて園にいきます。泣いている子をそっと抱いたり、遊んでいる子によっていくと「あれ、」という顔をして泣き止んだり、「あ、トトロだ、園長先生可愛い」といって見つけて触ってくる子や声をかけてくれます。多くの子どもたちはネクタイをすぐ見つけたり、 よってきます。しかし、トトロのネクタイをしていても研修会で大人は気づかないことが多く見られます。「トトロのネクタイしていますよ」と言わないと気づかないことが見られます。大人・保育者として『子どもが自分からかかわりたくなる環境』雰囲気を大切にすることにより「自分で○○する」という主体性を子どもたちに身につけることが求められています。子どもたちの会話の中で『別に』とか「どっちでも」という自分を主張できない態度をしている場面があります。人とのかかわりが希薄となり自分ひとりでいてもいい、他人はどうでもいい、自分さえ生きていればいい、なんとなく生きていけばそれでいいと『かかわりの薄い』また「感性が弱い」友達や大人とのかかわり方が気になります。

 このような「どちらでも」「別に」といった態度から他人を 観察する眼が育っていない、相手の表情や気持ちを感じない生き方になっているのではと考えさせられます。きれいに咲いている花を見ても「きれいな花ね」といわない、『面白い話を聞いても』 面白いと感じない、『美しい景色の夕焼け』を見ても「わあ、 きれい」といわない、「きれいな鳥の声を聞いて」も「素敵な音色」といわなくて育ったのでないでしょうか。

 日本には四季があり、美しさ、暑さや寒さを感じて生活するすばらしい時と場所があります。この感性を大切にすることで美しいものを美しいと感じ、それを残そうとする心が育ったり、観察する力から考えることが身につきます。そこには自分で工夫する創造力の芽となります。幼児期にうつくしい風景、不思議な出来事、面白い人の行動など観察する力を育て、感性を豊かにすることで「自分から○○する」力になります。ここで大事なことが乳幼児の近くにいる大人が感動する態度「わぁ!きれい」「素敵」『おもしろい』「あれ、不思議」「おお、すごいぞ」『ひゃあ!冷たい』『あったかい』といった豊かな表現をすることで、そこには温かい雰囲気があり、一緒に楽しむ乳幼児がいます。

 乳幼児は、周囲にいる大人の温かい雰囲気が与えられる事、またモデルがあることで、安心して笑ったり、怒ったり、泣いたり、様々な言葉を発したりできます。そして、この自分から「出来事や人とかかわる」ことができ社会的態度が育っていきます。このような体験を幼児期にすることで大人になってから「人とのかかわりとの距離感」を大切にした生き方ができます。また『相手への思いやり』も身につくことになります。

 この飛行機の中でのかかわりから「人とのやり取りのキャッチボール」のできる生き方のヒントを与えられたことを感謝します。 

園長  飯田和也

子どもの最善の利益になっていますか

 「何度も洗濯して乾かすこと大変だから」「自分が動くの面倒だ」「ひとつひとつ丁寧に教えるの難しいから」「今、していること中断されるとまた、最初からやり直すと面倒だから」など大人の都合で子育てしていませんか。将来、「自分で○○する」それも物や人を大切に生きる力を育てるためには、親や大人の都合でなく子ども最善の利益となっているか見直したいものです

 「ママ、さかなの絵描いて」と母親の傍に行き頼むと「後で」とか「後にシテ」といった言葉をかける場合があります。この時、子どもは一緒にいたい、ママの描いたのを見たい、かかわりたいという心を持った時です。このような気持ちの時「後で」と言われるとかかわりたい意欲をそがれてしまいます。現代社会は、人とのかかわりが薄くなった原因が自分ひとりさえよければいい、 家族でも生きていけるといった自分中心の世界で育った子どもたちは、他の人への思いやりを持つことが薄くなっています

 「お母さん、描けた見て」自分なりに工夫した犬の絵を見せたとたん「上手な豚みたい」と言われるとせっかく犬を描いたのに犬に見てくれない、受け入れてくれない、なんていう見方するのお母さんといった言葉に言い表す事が出来ない気持ちになります。このようなことは、描いているときを見ていなかったり、子どもだからきっとこんなのを描いていると決め付けてしまう場合になります

 「はやく起きて・はやく服着替えて、早くご飯食べて、はやく準備して」とはやくという言葉は、大人の都合で言っていることが多く見られます。じっくりと味わっていたり、肌で室温や匂いを感じていたり、丁寧にしている場合も見られます。子どものテンポがあり、子どもの目・耳・手・足になってみると感性が豊かであったり、性格がおおらかであったりするなど個人差がみられます。 他の兄弟や友達と同じテンポでないから友達に迷惑をかけるから早くさせようというのでなく、はやくしなくてもいい環境として前日にきちんと用意すること、ゆっくりだが服を たたんで出来た喜びを味あわせることで少しずつ早くなっていくようなほめ上手が親と言えます

 「お母さん・お母さん」「ナニ」から〔お母さん〕〔なーに〕という同じナニでもナニ!というしり上がりの返事をすると〔もういい、分かった、話したくない〕という気持ちになります。しかし、「なーに」とゆったりと穏やかな返事をする事で子どもは「おかあさん、今日、園でどんぐり見つけて拾ってコマを作ったら、回ったよ」と言葉が弾みます。聞いてくれる人がいるから話したくなるという状況です。話す意欲は、相手がじっくりと時間を 割いて聞いていますよという態度により話したくなります。母親が話しすぎると子どもは聞いてくれないお母さん、自分のことばかり話しているので話したくないと言う気持ちになり、母親へは言葉数が少ないタイプとなります。 しかし、 聞いてくれる友達や先生には、次から次へと話す態度がみられることを肝に銘じておきたいものです。

 「ケーキ買ってあげるよ」「どっちにする」〔・・・〕「これにしたら」子ども「え、ドッチでもいいと言ったのに」親はこっちがちょっと安いのでこっちにしてくれるといいなと、親の経済の都合で押し付けてしまう場合があります。このような場は、親に対して不信感となり、親の言葉を信じられない生き方に結びつく場合になります。

 子どもの要求を全て受入れるのでない。考える力や人との関わる力やおもいやりを育てるためには、大人の都合だけでなく子どもの気持ちを大切した聞き上手・ほめ上手・問いかけ上手・見守り上手でいたいものです。 

園長  飯田和也

言葉を獲得する時は聴き上手となる、他も一緒ですね

 赤ちゃんがぶーぶーと唇を震わしたり、指を口に入れて遊んでいたり、ぶーと声を出し始めたとき、自分のぶーぶーと言った音が自分の耳や頭の中の骨などを通して聞き始めます。「言う・・聞く・・ 言う」という言葉を獲得する最初の段階と言われています。この自分で声を出し始めて自分自身で楽しんでいる時に、母親は赤ちゃんの声をきちんと聞くチャンスと言えます。「あ、ぶーぶー」と言い始めたなと黙ってみているのでなく、ここで大切なのが可愛いなあと思って見つめ、ぶーぶーと声を出して赤ちゃんのまねをすることです。この可愛いなあと思う時に母親の笑顔があり、赤ちゃんは母親から愛されていると感じることができ、そこで母親の笑顔を見つめ、その時に自分と同じようなぶーぶーと言う声を聞きます。ぶーぶーの出所の唇を見るようになり、母親の唇からぶーぶーという音声が流れることで、自分も真似してぶーぶーと発声するようになります。この母親に愛されることで赤ちゃんは母親を 受入れることになります。このかわいいなあ、と言う気持ちが将来、自分で○○するという主体的な行動の元にもなります。大切なことは、赤ちゃんが真似したくなる母親の態度が必要になります。そして、ぶーぶーという声と一緒にミルク瓶が出されることで、ぶーぶーとミルク瓶が結びつけられることになってきます。何度もぶーぶーとミルク瓶と結び付けられながら、ぶーぶーと言うとミルク瓶が与えられ、 そしておなか空いた時、のどが渇いたときにぶーぶーというとミルク瓶が与えられると「ぶーぶー」という言葉を自分で言いたくなると思います。 

 このように言葉を獲得する過程を心理学者は説明しています。私達は赤ちゃんの周囲にいる母親や家族、そして保育者の可愛いと思う笑顔が重要と理解したいものです。

 言葉を獲得する時に、最も大事なのが愛されていると感じる雰囲気です。母親の可愛いなあと感じることで、 赤ちゃんは温かい愛のある空間が与えられ、自分から○○するという意欲に結びつきます。主体的になっているサインを出しているのを無視されたり、もっとやって御覧なさいと言った母親や周囲から押し付けられることは意欲をなくしてしまいます。

 食事の場面でも、離乳食が始まった時に、可愛いなあと思ってスプーンに食べ物を載せて「あーんして」と言う時に、何とか早く大きくさせたい、食べさせたいという気持ちで与えると、一生懸命に食べさせなければならないという気持ちになってしまい母親からは笑顔が消えています。「可愛いなあ、すこしでいいよ、 食べられるだけでいいよ、匂いをかぐだけでいいよ、味を少し味わうだけで最初はいいよ、また、もぐもぐしてね。 かみかみしてね」といった優しく・分かりやすい言葉かけと温かい愛のある雰囲気が与えられることで食べられた喜びが与えられ、 もう少し食べてみようかといった意欲に結びつきます。

 言葉の獲得と同様に食事においても、周囲にいる母親や家族の温かい触れ合いとして(可愛いなあ・上手でなくてもいいよ・失敗するのが当たり前だよ・ゆっくりでいいのだよ)と、相手を思いやる心で触れ合うことが、生きる力を伸ばす原則となります。しかし、だんだん子どもが大きくなると「かわいい」 という気持ちが少なくなり、早く大きくさせたい・急いで大人にしたい、何でも上手にできるようにさせたいという願いが強すぎると一生懸命に大人がなりすぎてしまいます、 そのときの親の顔には笑顔がありません。時々、子どもたちから「園長先生、今日、お母さん、ものすごく怖かったよ、口は大きく真っ赤で、眼はらんらんと火のように燃えて、おかあさんの頭からは角が生えていたよ」と報告があります。焦らず・怒鳴らず・時にはおおらかにいたいものですね。反省を踏まえて・・。 

園長  飯田和也

はさみは切らせるのでなく切りたくなる意欲

 三歳から四歳前後に初めてはさみを使う時、子どもは兄弟やお母さんのはさみを使っているのをみて、はさみが正しく使えないのに真似したくなり自分の髪を切ったり、 カーテンを破いたり、手を切ったりして周囲をびっくりさせることがあります。四歳ごろになっても親指と人差し指を入れることが反対になったり、自分のほうにはさみの先をむけたりして一生懸命使おうとする姿が見られます。

 このように子どもたちが生活の中で道具を使うことをはじめだした時に、はさみがスキだから・興味・関心を持ち出したので好きなように、やりたいように見ているという態度は改めなければなりません。好き放題・やりたい放題では子どもたちは、兄弟姉妹の髪を切ってとんでもない頭髪にしたり、大切な書類をぎざぎざにしたり、カーテンやスカートに細工をしたり、大きな怪我になる場合があります。生活の中で道具を正しく使うことを、始めに約束することで、物が無くならない、大きな怪我をさせない、はさみを相手に渡す時は先を向けないなど、生活のルールを身につけさせ人を大切にしたり、物を壊さない生き方に結びつくようにしたいものです。

 はさみを使う時に正しく持たせ、怪我をさせないための約束を教えながら紙が切れた喜びを与えて、困難を乗り切る力を身につけることが家庭や幼児教育で最も大切な一つと言えます。

 はさみを上手に使うためにどのような工夫をしているかが、親も先生も問われています。一生懸命にはさみを正しく持ちなさい、切る時は指の使い方が大切とやかましく形から入っていくと子どもは「つまらない・面白くない・せっかく切ろうとしているのにうるさいなあ、面倒だなあ、もうはさみヤーメタ」と投げ出してしまう子がでてきます。形から入ってできる子もいますが、はさみがつかえたという喜びを与えることが大切と言えます。はさみが使えた満足感を与える場を工夫します。おかあさんが「一センチ以内の細長い紙を準備します、一回で切れる幅の細くて長い30センチぐらいで、一回ちょんと短く切り、そして切った方の切れ端を空中に落としてみるとひらひらと落ちます。また、長めにちょんと切って落とすとくるくるとゆっくりと回って落ち始めます。次にやや短めにちょんと切って落とすとくるくるとはやく回って落ちる場面をモデルとなって「お・面白い、あれ・不思議だ・かっこいい」などしゃべりながら楽しむ姿を見せます。子どもたちがやりたくなる言葉と姿を示すことが重要となり、それによって(僕にやらせて・私にも)という態度になればしめたものです。

 やりたいと言う時に、正しく持ち方を伝えて幅の狭い一回切りが出来るのを渡してちょんと切らせます。するとほとんどの子は切れたり、ちぎってでも切ることができ、ソレを落とすとくるくるとかひらひらと落とすことが出来、さらに切らせると長さが異なるため前と違った落ち方を体験することになります。そして次々と切れた喜びを味わうと同時にはさみが使えた満足感になっています。場合によっては、幅を二センチほど広くした紙を与えると一回で切れないがちょきちょきと二回切りをする子も出てきます。二回目が切れなくてもちぎってでも出来た切れ端を落とすと一回切りと異なったひらひら・くるくるといった落ち方を体験することが出来ます。切らせるのでなく切りたくなる意欲を大切にする育て方が求められています。

 このような体験を通して、はさみを切らせようとするのでなく紙が切れた喜び、落ち方が面白いからもっと落としたいと言う意欲が出来る事ではさみが使えた満足となります。気がついた時にはさみを使っている心情、もっと使いたいという意欲、使っている時に集中し工夫する態度を身につけている場面となります。

 子どもの眼や手になることで生きる力を身につけさせられるお母さんや先生でいたいものです。 

園長  飯田和也

お母さんの愛の言葉と態度で子どもは「幸せな一日となります」

  • おかあさん、今日、何回子どもに有難うと言いましたか。
  • おかあさん、今日、何回子どもに幸せと言いましたか。
  • おかあさん、今日、何回子どもをぎゅっと抱きしめましたか
  • おかあさん、今日、何回可愛いと思って見つめましたか。そのとき、子どもはにこっと微笑み返してきましたか。
  • おかあさん、今日、何回失敗してもいいよ、能力信じているからねと思って触れ合いましたか。
  • おかあさん、今日、何回多くのことを要求しすぎないでいいと思って触れ合いましたか。
  • おかあさん、今日、何回具体的にここが出来たねと共感しましたか。
  • おかあさん、今日、何回子どものために腰を落ち着けてじっくり時間を割いて聴いてあげましたか

 このように愛のあふれた環境により子どもたちは、 愛されている・認められている・受入れられている・信じられているという感覚になることで生きる喜びを味わうことになります。
 生きる喜びから自分は泣いて騒がなくて良い、また、わざとひきつけなくて良い、自分ができないことを 隠さなくて良い、劣等感を持たなくて良い気持ちになります。ひとりの人間として心が育っていくことになります。そして、失敗してもいい、出来なくても見守ってくれる人が一人いるという状況で行動することから「自分で」 とか( 自分から) という行動に結びつきます。 そこで、自分の能力を 見つけ、さらには気づかせ共感してくれる人がいることで、自信がつき「自分で」 「自分から」という意欲がさらに湧き自主性という生きる力になります。この「自分で○○する」という行為は、押し付けたり、頑張れという励ましだけでは身につきません。自分は周囲から(愛されている)という感覚により、我慢する態度や人を愛する気持ちになります。

 子どもを心から愛しているなら、子どもを授かってよかったと言う気持ちで「有難う」を伝えたり、貴方の行為でお母さんは幸せな一日でしたよと、心を込めた触れ合いによりお互いが幸 せな一日になります。時々、この幸せが当たり前と感じ、生きる喜びを与えられていることを忘れ、見失い、相手に対して多くのことを要求しすぎたり、イライラしすぎたり、怒りたくなったり、無視したり、ガミガミ言いすぎたりして相手の事が見えなく、幸せなひと時を見失っている親子関係が見られます。

 上に挙げた全てのことをすることは不可能ですが、時々、自分が子どもに対して見失っている態度を想いだし、生きる喜びと生きる力を親として子どもから与えられていることを見直すキッカケにしたいものです。心から可愛いなあと思って見つめると子どもがにこっと微笑んでくれた時の嬉しさを味わうことで「この子に出会ってよかった」という感情を味わうことになります。

 親として(ゆとり)のないときは味わうことは困難ですが、この文章を読んだ時に、時々思い出していただければという願いを込めて書きました。子育て真っ只中の家族にとっては、見失っている愛のある触れ合いが毎日あっても見つけることが出来ないかも知れません。幼稚園・保育園・小学校での行事の場面や友だちとの触れ合い、先生からの温かい言葉かけの中に見失っていたことを思い出す場面から、わが子をこんなにも愛している自分を思い出していただくことを願っています。親子で共に高まる場を与えられることで、生きる喜びや生きがいをみつけることに結びつきます。

 この手紙がいつの日にか、多くのお母さんに届くのが私の夢です。 

園長  飯田和也

お母さん、そんなに心配な顔して見送らないで

 わが子が初めて幼稚園・保育園・小学校などに行くとき、子どもは「サア、どんなところかな・どんな友だちと出会うかな・先生は誰かな・楽しいことはあるかな」といった心弾ませている時があります。元気で明るく出かけようとしている時に、お母さんが「泣かないでね」と言いながら母親が泣きそうな顔して見送ったり、「友だちと仲良くできるかな」と言いながら怖い顔で見ていたり、「トイレ失敗しないでね、園についたらトイレ行くのだよ、なにか始める前にトイレ行ってね」と何度も何度もトイレの失敗をしないように言い過ぎてしまう態度、「給食、いっぱい食べてね。また、少しでも頑張って食べてきてね」と頑張らせて食べさせようとする態度で送ったりすることが見られます。

 このような心配しすぎる顔、言い過ぎる言葉かけ、頑張らせようとする態度、そのようなときの母親の顔からは笑顔が消えています。心配しすぎたり、頑張らせようと一生懸命になっているときの母親の心には、「子どもの様々な能力を信じること、辛いことを乗り切る力があること、そして、何をしてもわが子は可愛いと思うゆとり」が見られません。一生懸命に早く上手にさせよう、慣れさせようという気持ちが強い時、また、周囲の子どもとまったく同じように大きくさせようという「ゆとりのない」母親の態度から、子どもたちは頑張って園に行かなければならない、トイレも失敗するとお母さんに叱られる、頑張って給食を食べないといけない。早く慣れないとダメという気持ちを強く持たなければと感じることになります。乗り切る力があり、何でもできる子は新しい環境に対しても心配なく集団に入っていきます。しかし、ほとんどの子どもたちは、新しい場や先生、友達に対して緊張の連続でストレスがたまることもあります。

 この新入園や新学期は、子どもにとって肉体的・精神的に疲れます。少しでも緊張しすぎないため、またストレスを少なくするには、母親の笑顔とおおらかな態度で、子どもが辛い時・苦しい時乗り切る力を持っていることを信じて見守る力が要求されます。どのように信じるかというポイントとして一年前の身体発達・知的発達・情緒的発達・社会的発達を見つけて大きく成長・発達した能力を信じることといえます。一年前の身体発達を思い出してください、手先の発達では、ボタンもかけられなかったこと、スプーンも鉛筆も上手にもてなかったことが少しずつ使えるようになっていることを見つけてください。また、しっかりと歩けなかったことが転ばないで歩けるようになったこと、ズボンも靴も一人ではけなかった事がはけるようになり、自分からできるようになっていることを見つけてください。知的発達では、挨拶も出来なかったことが『おはよう・おやすみなさい・有難う』と言えるようになったり、こちらを見なさいと言われなくてもじっと見つめたり、聞いてねと言われなくても自分からよく聴くようになったり、真似してといわれなくても、自分からお父さんやお母さんのしゃべり方、笑い方、寝方、テレビの見方がそっくりになっている主体的な場を見つけてください。情緒的発達では、一年前は、すぐに泣いていたのが、今は我慢できて落ち着いて安定した状態を見つけてください。社会的発達では、一年前は周囲の大人や子どもと関わらなかったのが、今では自分から関わって発達していることなど見つけることが出来るはずです。

 この四月は、親として子どもの困難を乗り切る力をもっていることをどれだけ信じ、言い過ぎないで我慢して「親」という漢字のように、木の上に立って長い眼で見守る親でいたいものです。

 明るく・やさしい笑顔と元気な声で「○○ちゃん、いってらっしやい」笑顔でやさしく『お帰りなさい』と迎えてあげてください。 

園長  飯田和也

乳幼児期は生きる力の基礎を培う

 乳幼児期は、生涯にわたる生きる力の基礎が培われる時期であり、 特に身体感覚を 伴う多様な経験が積み重なることにより、 豊かな感性とともに好奇心、探究心や思考力が養われる。また、それらがその後の生活や学びの基礎になる。以上の文章は保育所保育指針に書かれているが幼稚園の園児にとってもまったく一緒 といえます。子どもたちが生涯にわたって生きていく力を 身につけるには母親や保育者 からの温かい温もりと優しい笑顔が一緒になったスキンシップが与えられることで、愛されている・受入れられていると感じることが出来ます

 この母親や保育者から愛されていると感じる感覚から子どもは、失敗してもいい、 最初は出来なくてもいいという雰囲気が与えられることになります。そこで自分は認められ・ 愛されているから自分から聞いてみよう・見てみよう、匂いをかいでみよう、口に入れて味わってみようという意欲が湧いてきます。この母親や父親、また保育者からぎゅっと抱かれたり、そっと抱かれたり、チューとされたりする肌と肌との交わりがある中で情緒が安定することになります。「○○ちゃんかわいいね」「○○クンかっこいい」という 言葉と一緒に温かい眼差しとスキンシップがあって乳幼児は安心して「自分から○○する」という主体的な行動に結びつきます。この見守られている場として安心することができると次に身体の様々な感覚を 働かせて多様な活動ができるようになります。

 親や保育者は乳幼児の目・耳・口・鼻・手・足を 意識したいものです。乳幼児の立場になろうという意識がないと「させればいい」「 やらせればいい」 という考えになってしまいます。大人の考えでなく子ども自身になってみようという考えがないと一人ひとりの情緒の安定は出来ません。周囲にいる大人から愛されることで我慢し、妬まなく、人の話しを聞く態度が出来人を愛する姿勢に結びつきます。 このような生きる力の基礎は乳幼児期に親や保育者の温かい愛情のある雰囲気を 味あわせることが第一といえます。

 この多様な活動を大人や友達から保障されることで、少しさわっいい、もっと音を聴いていてもいい、周囲にいる友達の声を聞いていてもいい、見ていていい・ 部屋の匂いや友達・保育者の匂いをかいでいてもいいという自分から行動する主体性が出てきます。この主体的な活動が出てくるためには周囲にいる大人の見守り、受け入れがなくても発達できません。 何とかはやく上手に積み木を何段も積ませよう、 ブロックで面白い形を造らせよう、手遊びや歌を歌わせよう、はっきり挨拶させようという姿勢が強すぎるとその子にふさわしい素晴らしい感性を みつけ、 伸ばすことができません。ここで大切なことは母親や保育者がじっと相手を受け入れ、見守り、共感する体験をすることで豊かな感性と「なんだろう、 面白そう、 不思議だな』といった好奇心や探究心・思考力などが育ちます。家庭や保育室や自然や周囲の環境に対して『自分から関わる』という心と身体活動を保障することが最も大切なのが幼児期と言えます。

 乳幼児の上手にあるけない、 しゃべれない、 食べられない、トイレができないのが当たり前ということを受入れることです。 そして失敗しても大きな怪我をしないと信じて、困難を 乗り切る力を与えるために見守る力を 持つこと、興味を 持っている時は温かく見守ること、じっと音を自分から聴いていたり、そっと触っていたり、匂いをかいでいる時は静かにニコニコと見守る力が思考力を育てる基礎になることを 十分に認識することの大切さと理解したいものです。 以上のような乳幼児期の体験がその後の生活や様々な学習の基礎になることを 肝に命じて触れ合う努力をしたいものです。 

園長  飯田和也

乳幼児の心情・意欲・態度を 理解して発達を伸ばしていますか。

 乳幼児が近くの赤ちゃんや親を見るだけで楽しい、泣き声を聞くだけで悲しい、周囲の人の声を聴いているだけで嬉しい、傍にいるだけで楽しい、匂いを かぐだけでいい、邪魔されると怒りたいという心情「その人がその出来事にあったときの喜怒哀楽の情がまだ言葉になって表出されないもの・国語辞典」があります。また、自分からもっと見よう、さらに聞こうとしたり、触ろうとすること、食べようとしたり、しゃべろうというものや人、雰囲気に関わりたい、さらに近くに行きたいという『○○しよう』という意欲「積極的に何かをやろうという気持ち・国語辞典」も見られます。また、周囲の乳幼児や大人の行動を見ていて、自分から同じように真似する態度、へたであるが自分なりに工夫して指先を使う態度、身体を自分なりに工夫して使う時に我慢する態度等あります。この態度「その時考えていたり、感じていたりすることのあらわれとして人に示す言葉つき、表情・動作、国語辞典」があります。

しかし、このような気持ちを育てるには周囲にいる大人や子どもが、この乳幼児に対して受け入れ、 認め、愛する態度がなくては、心情や意欲、 様々な態度は育ちません。周囲にいる親や先生が先回りをしすぎたり、「危ない・危ない」と言い過ぎて禁止しすぎたり、手を出しすぎるとこのような環境に関わる力を育てることが出来ません。

 人前でなかなか自分の意見を伝えることが苦手な人がいます。 そのような人に対して「失敗してもいいから頑張って話してみたら」「きっと貴方ならしゃべられるようになるから大丈夫」といった安易な励ましは慎みたいものです。話すことが出来た心情を 味あわせるためのアドバイスを次のようにしました。「一人でいいから聞いてくれる人を 見つけること、話しは聴いてくれる人がいて話したくなる。あなたは観察する力が素晴らしいから具体的に一つでいいから見つけたことを話したらいいよ。上手に話さなくてもいいんだよ。 自分に愛情ある人、 認めてくれる人、 受け入れてくれる人や集団で最初に話す場を見つけ、すこしでいい、失敗してもいいと思って話せるだけでいいよ」ということを伝えました。

 愛情のある雰囲気であれば、見事に具体的に話すことが出来ることがあります。このようなアドバイスをした後、出会ったとき「一つしゃべれたよ」と嬉しそうにキラキラと光る目で話すことができたという報告がありました。子どもや大人に対して苦手なこと、辛いことを乗り越えさせるために『頑張れ』と言われて、できる人もいますがそうでない、多くの人へはまずしゃべれた喜び、このしゃべれたことからもっとしゃべりたいという意欲に結びつきます。そして、そのとき人の話す姿を真似する態度、人前で我慢する態度、自分から少しずつ話す態度が身につきます。

 話すことだけを発達させることは困難なことが多いのですが、周囲にいる人が聞き上手な愛情ある態度で「話しは弾む」になります。同じく「おいしい」と食べられた喜び『心情』を味わうことでもっと食べたいという『意欲』 になり、食べる時に『人やものを大切にする態度、我慢する態度』 が育ちます。『はやく食べなさい』『全部きれいに食べなさい』『箸の持ち方悪い』『ひじをついて駄目』『しゃべらないでたべなさい』といった食べさせようという雰囲気だけでは「食事を楽しむ」にはなりません。食事の時の『おいしく食べたという心情を 与える愛情ある環境』が最も大切となります。

 周囲にいる親や兄弟・家族から愛されている態度、保育室では先生や友達に愛され、認められている雰囲気から乳幼児の心情・意欲・態度が育つことになります。子育てや保育の中で乳幼児の心情・意欲・態度を理解し、見つけた時の共感・見守り、励まし・慰め・ 助言などを 工夫し乳幼児に「生きる力」を育てるのが保育のプロと本当に心から愛情ある親と言えます。

園長  飯田和也

乳幼児は、大人との信頼関係を基にして、子ども同士の関わりを持つようになる

 乳幼児は、大人との信頼関係を基にして、子ども同士の関わりを持つようになる。この人との相互作用から、身体発達・知的発達とともに情緒的、社会的および道徳的な発達が促進される。

 乳幼児は一人だけでは発達できません。最初、親に愛されることで自分から○○する態度ができ、我慢し、人の話しをじっくり聞くように育ちます。そして子ども同士の関わりが広がります。この子どもの発達を見つめる時、例えば上に書いたような様々な視点で周囲の大人は偏らないで捉え働きかけたいものです。わが子が四月から今日までに、手先や身のこなしが発達していること、先生や友達の話しをじっと聞く力、よく見て観察している力、自分から真似する力、四月に泣いたり、すぐ怒ったりしていたのがおだやかに過ごす力、自分ひとりだけでなく友達とかかわる力、生活の中で約束事・ルールを守ろうとする力がついてきていることを見つけたいものです。

 前に比べると身体が大きくなったからいい、友達と一緒に行動できているから良いと瞬時に判断し大人の都合だけの姿だけを見つめていると、どこがどのように成長・発達したのか把握できない場合があります。しかし、半年前・一年前のわが子の人,ものとの触れ合い方をじっくりと見るときを時々持ちたいものです。そのときに手先が使えるようになって折り紙が丁寧に折ったり、絵が色や形などイメージどおりに描けるようになってきたことは理解できます。この他にいつも泣いていたのが泣かなくなって情緒が落ち着いてきたとか、自分を出せるようになって自我が出てきたとか、友達関係で一人だけで遊んでいたのが友達とかかわりが広がってきたこと、約束事が守れるようになってきたことなど幅広く発達を捉える眼を持つことが重要になります。

 このように発達は様々な視点を持つことが必要ですが、親や先生は自分にとって都合のいいことだけを見る場合があります。親の得意な事、不得手な事、周囲を気にして世間体を見てしまうなど、偏って捉えると子どもからのサインが見られないために能力があることを捉えられなくなる場合となります。

 [せっかちな親からのろのろした子が育つ]「勉強とウンチは人に言われてするものではない」「子どもの行為を当たり前と思い有難うといえない大人」「みんな違ってみんないい」など子育てをする時に参考となる言葉があります。幼稚園や保育園では一年の終わりに一人ひとりの発達した姿を感想文でなく具体的に書いて小学校に伝えます。そのためには、四月の入園した時やクラスが変わった時に、先生は一人ひとりの一年間の発達をみつけ、 具体的にどのような働きかけをしたか、助言したり、共感したり、受入れたり、 認めたかが問われることになりました。親としても入園時のわが子の泣いていたこと、挨拶もしっかりできなかったこと、約束も守れなく勝手な行動をしていたこと、折り紙も丁寧に折れなかったこと、トイレが失敗していたことがあり、半年・一年たったら大きく成長・発達したことを見つけ、子どもを 授かった喜びを先生たちと一緒に味わうことが大切といえます。

 時々、わが子の発達している姿を入園式、遠足、参観日、運動会、七夕やクリスマスの発表会など様々な行事を見た時、入園したころや去年の行事を 思い出して大きく成長・発達したところとして身体発達「手先・身のこなし」・知的発達「自分から聞く・観察する・真似するなど主体的な行動」情緒の発達「心が落ち着いていたり、泣かないで気持ちの安定している行動」社会的「一人だけの行動だけでなく友達とのかかわり方」道徳的「約束ごとやルールを 守る行動」などを見つけたいものです。このような発達のために問いかけ・見守り・受け入れ認め・ほめ上手や叱り上手・助言・共感したかがわが子には効果があったかをみつけたいものです。わが子が示している能力に「共感」の上手な態度から生きる力を育てたいものです。

園長  飯田和也

乳幼児の時、親の愛情の与え方が性格形成に影響する

 おじいちゃんやおばあちゃんとなり孫の保護や世話をしている姿から、また、父親や母親となって子育てをしている姿から、その人の小さい時の育った環境や受けたしつけが影響される場合が見られます。

 自分が幼いとき愛情を与えられない放任や拒否されて育つと、どのように愛していいか、世話をしていいか、命を守っていいか、また乳児が不安な時どのように抱いて接していいか戸惑い、孫を不安にさせている場合があります。特に、優しい言葉や笑顔がなく抱きかたのぎこちない触れ合いが見られます。また、反対に両親から過保護で育った場合には、「○○しては危ない」と禁止句が多くなり自発的な行動が少ない乳幼児を育てている場合となります。さらに、せっかちな親からノロノロした子が育つといわれるように『言われすぎたり、先回りの親から育てられた場合』はなかなか自分から行動できなく、与えられることや指示されることを待っている性格になっているなど、様々なタイプが祖父母や親にもみられます。

 このように親や祖父母が様々な環境で育ったことにより、子どもや孫を育てる時に乳幼児も影響を受け、乳幼児は、様々な性格のタイプが見られます。家庭の環境の中で、乳幼児が刺激に対して積極的に行動するタイプ、反対に刺激に対してのんびりしているタイプ、自分ひとりで黙々と行動するタイプ、ある時は忙しく走り回ったり・ゆったりと行動しているときが入り混じっているなど様々なタイプが見られます。乳幼児は一人一人がちがっていることを理解し、家族で乳幼児を育てる時に、兄弟はちがっていることを把握し、一緒の育て方をするのでなく、一人一人のちがうタイプにあわせて育てあげたいものです。兄弟姉妹が三人・四人いると『みんなちがってみんないい』という言葉があるように同じように育てることはできません。

 赤ちゃんの時、とんとんと身体を触れ合うことを好むタイプ、ぎゅっと抱きしめて欲しいタイプ、ぎゅっと抱かれるのを嫌がるが、少しだけ傍にいることを好むタイプ、また、数ヶ月すると抱かれ方や言葉のかけ方で安心することが見られます。

 赤ちゃんへの保育者や母親の触れ合いを見ていると、泣いた時に抱き上げて背中をとんとんとして優しい言葉をかけることで安心する乳児のタイプと「大丈夫だよ」とぎゅっと抱きしめ肌の温もりを与えることで不安がすくなるタイプ、「傍にいるから安心してね」と笑顔をかけることで『生きる喜び』を与えられるタイプなどがあります。赤ちゃんに対して同じように抱けばいい、笑顔を与えればいいという態度でなく、一人ひとりが今は、『こんな抱きかたして』『こんな言葉をかけて』『ここがかゆいよ』『ここが痛いよ』『こんなにおなかすいているよ』などサインが出ています。そのような時、貴方からのサインを受け止めること、そして一人一人への言葉かけ、抱き方、笑顔の与え方をいつも同じでなく様々与える方法を見つける眼を持つことです。見つけた時に「こんなことできるようになったね」と温かい受け入れ方、認め方、共感の言葉をかけることで乳幼児は愛されていると感じ生きる喜びと生きる力の元を身につけていきます

 親になった時、おじいちゃん・おばあちゃんになった時に乳幼児からのサインを見つけた時、自分と結ばれている感覚となり、生きていて良かったと『生きる喜び』を与えられることが出来、子どもを授かった喜びや孫を授かった感動を味わうことになります。子どもが幼いときの触れ合い方は、祖父母を含めて一貫性のある愛し方を家族で話し合うことです。子どもたちが将来、自分の子どもを授かった時に、家族全員が一緒に困難を乗り切り、人を愛する態度や生きる力を身につけさせるための温かい愛情を与えたいものです。

園長  飯田和也

中学生との交流から〜異年齢との触れ合いの大切さ

 二日間、七名の中学生が幼稚園に職場体験学習『かかわり体験』としてそれぞれのクラスで過ごしていました。ある男子の中学生がかかわり二日目の最後の時、年長組にて紙芝居を読み、そして、子どもたちから『一緒に遊んでくれてありがとう』の挨拶を受けた後、担任から「一言お願いします」と言われて子どもたちの前に立った男の子が『二日間有難う。[そして、しばらく考えていて、]おにいちゃん、これあげるよと遠足についていった時、優しくしてくれたことが嬉しかった』と話すと同時に感極まり、オイオイと涙を出す場面になりました。まさか、子どもたちが幼稚園でこんなにも自分に優しくしてくれるとは思わなかったことを、幼い子どもたちの前で正直に話している場面から様々なことが教えられました。

 中学生の中には兄弟姉妹が少なくどのように触れ合っていいか、不安と期待でかかわり体験にきている場合も見られます。そのような中で「子どもたちから優しくされる」という意外だったことを体験し素直に感動できる中学生がいることを見て、兄弟姉妹のかかわりが少なくなり自分が人から愛されること、それも子どもから受け入れ、愛されるという体験をすることで、いままでにない心情を味わうことが出来るのも、このような中学生と園児たちとの触れ合いがあっての証でした。

 今、子どもたちの周囲には年下の子や年上の子供たちとのかかわりが少なくなり、どのように関わったらいいか見通しを持たない場合が見られ、関わることを避けている子も見られます。この中学二年生が幼い子どもと触れ合うことで『自分の中に子どもから愛される体験、そして、自分が子どもたちとどのようにかかわっていいか理解する場』が与えられたことで 人に対しての対応が学べたと思います。現在、「おもいやり」とか「人へのやさしさ」をどのように身につけるかが問われています。家庭や学校で知識・技術だけでなく幼稚園や保育園、児童養護施設の子どもたちとさまざまなかかわり交流をすることで、人を愛すること、愛されることが体験できる場合もあります。中学生が幼い子どもたちに技術を教えるだけでなく、また、単に一緒に遊ぶだけでなくお互いが「認められた、受け入れられた、愛されている」といった心情を味わう場面でした。異年齢との触れ合いから「生きる喜び」をお互いが与えられる体験がもっと必要と思われる保育場面でした。

 保育場面は人と人とのかかわりがあり、それによって自分自身のさまざまな心の動きを見つけることができます。特に、中学生や高校生が人間関係で辛いとき、また、身体のことで苦しいとき、勉強や進学のことで悩んだとき幼稚園や保育園で、幼い子どもから気づかせられることで生きる力を得る場合があります。自分自身の幼稚園や保育園の小さいときを思い出して「自分には能力があった。やさしさがあった。大好きな友達がいた。絵を描くことが得意だった。走ることも認められていた。歌うことが好きだった。」という心の基地を思い出すことで『生きる喜びを味わい、そして困難を乗り切る生きる力』がわいてくると思います。

 今、人間関係でもっとも求められているのが「身近な人と親しみ、かかわりを深めること」「共通の目的を見出し、工夫したり協力したりすること」「幼児が自己を発揮し、先生や他の子どもに認められる体験をし、自信を持って行動できるようにすること」「決まりの必要性を気づくこと」などです。幼稚園や保育園で友達に認められ、愛されることで人を愛する態度が身につきます。この涙を出した男子中学生は卒園児でした。心の優しい生き方を身につけたことを園長として誇りに思うと同時、このようなかかわり体験を与えていただいた学校に感謝しなければならないと思いました。

園長  飯田和也

リレーには勝てなかったけれど

 『 ○○チャンがんばれ、○○走って・走って、 抜いて○○』 と運動会のリレーで盛り上がっている中、赤と白に分かれて抜かれたり、抜いたりし、 後数人が走るだけまで進んできていた場面でした。四人の走者が バトンを受けて、後少しという場所まで必死になってお互いが走っていた。そのとき先頭の子が帽子を 飛ばして落としてしまうが、もちろん拾わないで次の子にバトンを 渡すのであった。 次に走っている子は見向きもしないで次の走者にバトンを渡すのであった。しかし、三番目の男の子は、落ちた『帽子』をさっと拾って落とした子に手渡す行為となった。

 それまで何人も帽子を 落として走っているが後から来た子は、だれも拾ってあげることなく自分が走るのに必死であった。回りで見ている観客からこの男の子の行為を見て『すごい』拾ってあげたと感激の言葉が出るのであった。 この子はリレーで走っている相手を 抜くことができなかったが、『思いやり・ 優しさ』 を見ている者・ 応援しているものに「素晴らしい行為」 という感動を 与えることができたのでした。 一番になれなかったかもしれないが運動会の中でもっとも光っていた男の子でした。行事の中で生きる力を発揮し周囲に様々な影響を与えていた男の子でした。

 今、親が子どもを殺したり、子どもが親を殺したり、人を平気で殺すことが毎日報道されている現状です。このように相手のことを考えないで、自分さえよければいいという自分本位な生き方が問題と言えます。家庭や幼稚園・保育園などの小さいときに人への『思いやりや優しさを持ってかかわる』という体験が少なくなったと言われています。そのために幼稚園や保育園、小学校で『人に関わること、相手との共感する』人間関係を大切にすること、家庭にて愛されている事で人を愛する態度を見直すことが問われています。この男の子の行為は学校教育の中で『人間関係』をどのように取り入れ、勉強以外のことをどのように大切にするモデルであるかという一つにしたいものです。

 家庭の中で愛されること、人を大切にすることを培うためには『人と関わる力』として家族で共に過ごすとき、受入れられている心を味合わせることです。その後の保育や教育の中で人と関わりたい、そして人を大切にする心が家庭教育から養われます。赤ちゃんのとき、傍にいるだけでいい、見ているだけでいい、声を聞いているだけでいい、匂いをかいでいるだけで親は幸せだよという心を赤ちゃんに伝えること、そっと抱きしめるとき、ぎゅっと抱くとき、優しく声をかけることで赤ちゃんは愛されていると感じます。このように愛されることで「自分から考え、自分から行動できる」ようになります。しかし、過保護や言い過ぎること、勝手にしていなさいといった放任のしつけでは、人を愛する行為、相手を思いやるという『生きる力』の意欲に結びつきません

 父母や先生の「人を大切にし愛する」態度、「受け入れる姿」を子どもたちに示すことも重要になります。子どもは「人に認められ、人との違いを気づく」ことで自分から人を大切にする行為が育ちます。友達と関わることで喜びや悲しみを共感しあう体験となります。親や先生が人を大切にし、共感している態度を見つけたときに共感する態度が育ちます。今、もっとも子どもたちの中に育てなければならないことは、共感です。相手の悲しみを受け入れたり、苦しみや喜びを共感してくれる友達が一人いること、悲しんでくれるお母さんが一人いたら、一緒に泣いてくれるお父さんが一人いたら、また、一緒に悔しがり、喜んでくれる先生一人いたら生きている喜びや生きる力になります。友達のために帽子を拾ってあげた男の子の生き方を見習い、人生を豊かにしたいものです。

園長  飯田和也

四月から大きく発達した子どもの姿を見つめる眼と能力があることを信じる心を子どもから 教えられましたか。

 四月は泣いていた子、トイレを失敗していた子、挨拶ができなかった子、友達のそばにいるだけのとき、母親から離れるとき泣いていた子、子どもたちのそばにじっとして見ていた子などさまざまな状態が見られました。 家庭においても、わが子がどのように遊んでいるか、トイレどうしているか、食事食べているか、ずっと泣いているのか心配で仕方がない時期が続いたと思います。聞いても、黙っているだけのとき、自分から話してくれないために余計心配になったこともあったと思います。

 入園して三ヶ月・四ヶ月、経つと子どもたちは、さまざまな変容を見せ始めていると思います。家の中を走り回っていた子が椅子に座ることができたり、 服を 脱ぐことができなかったのに自分から一生懸命脱ごうとしたり、ありがとうという言葉が出るようになったり、ブロックで遊ぶとき今までと違って集中し、自分なりに工夫し遊ぶことができるようになるなど見られます。しかし、家庭に帰ってくると、 今までなかった甘え方をしてきたり、 イライラしてすぐと怒りやすくなったり、わざと気を引くような行動を するなども見られると思います。子どもは集団の中で緊張し、我慢をして疲れて戻ってきます。好きな行動ができなく忍耐していて家庭で甘えたいときもあります。

 このように数ヶ月でさまざまな態度をすることが発達している証です。 家庭にいると、なかなかわが子の発達がみつけることができません。 身体発達と知的発達を伝えてくれるのが保育という場からの子どもからのサインと言えます。しっかり歩けなかった子が走れるようになり、ズボンをはくのに時間がかかった子が少しずつ早くなったり、暖かいご飯しか食べなかった子が冷たいご飯も食べられるようになったり、友達の名前を言うようになったり、先生の真似を するなどが見られると思います。このような状態を当たり前と思わないでください。 子どもたちは、じっとよく見ていました、じっくりと聞いていました、そっと触っていました、黙ってにおいを嗅いでいました。自分にとって安心する場所、心の安らぐ友達や先生を 見つけていました。子どもはあせらないで温かく見守っていて欲しい、いつも怒らないでわかる言葉をかけて「お母さん・お父さん」という心情です。すると数ヶ月で「自分から○○する」 という主体的な行動ができるようになってきます。自分から使ったものを片付けたり、トイレも進んでしたり、「おはようやありがとう」を言ったり、自分からベットにいったり、友達のことを伝えたり、靴を間違えなく履いたり、揃えるなどができるようになっています。

しかし、言い過ぎたり、答えを先に与えたり、心配すぎたりすると、子どもは親からの言葉を 待っていて自分からという主体的な生き方ができません。温かく見守ってくれる先生や親がいたり、 友達が自分のできたことを共感してくれることで「生きる喜び」が与えられます。

 この数ヶ月間で「自分から○○する」ことができることを 見つけるのが愛情あるお父さん・お母さんといえます。 そして、入園する前に比べると「ここが○○できるようになったね、お母さんもお父さんも大きくなったことを見せてくれて幸せだよ」また「ありがとうね」という言葉をかけることで子どもたちは「生きる喜び」と「生きる力」が与えられると思います。

 子どもの甘えたいときをしっかりと認め、受け入れることと困難を乗り切る力を付けたことや自分から行動する能力を 持っていること見つける眼を親として見直し、わが子の能力があることを信じてあげられる父や母でありたいものです。

園長  飯田和也

子どもに自分より 小さい子を紹介するとき

 子どもたち全員の前で、新しい子が入ってきた日に園長として次のような言葉をかけました。自分たちより年下の子に対して「新しい子が一番嬉しいこと、それはお友達の笑顔があると安心するのだよ。『ちっちゃい子で可愛い』と思って遊んであげてね。可愛いと思って遊んであげていると素敵な笑顔になっているよ。新しい子はどうしていいかわからない、そんな時友達の優しい笑顔があると嬉しいよ。また、小さい子に『有難う』を教えてあげてね。みんなが『有難う』を言っている姿を見せることで、「ありがとう」と言える様になるからね。先生や友達から○○してもらったとき『有難う』が言えると気持ちいいね。みんなで『可愛い』と思う笑顔と『有難う』が言える友達になってね。」と話しました。

 このように新しい友達とはじめて出会うとき、園でも家庭でも約束事を具体的に伝えることです。黙っていてはどのように触れ合っていいか理解できません。また、どう言葉をかけていいかもわからないときです。不安なときの子どもの心を理解し、この場所や触れ合い方では『人を大切にする場』そして『自分は愛されていると感じる場』ということを最初に味合わせることです。子どもたちに仲良くしてね、優しくしてね、だけでなく具体的に伝えるチャンスが最初にあります。この約束事をすることで『子どもが可愛いねと思って優しくしているときを見つけたら』『優しくしてあげて、先生うれしいよ』とか『有難う』という姿を見つけたときに『有難うが言えて、気持ちいいね』という共感する言葉が出てきます。このような具体的に共感する態度により子どもの心は大きく左右されます。このようなチャンスを見つける眼を親として持ちたいものです。持っていないとせっかく安心して自分を表現できるチャンスを逃し、不安と不信感、恐怖感などが続き情緒の安定した生活と出会うのが遅れてしまう結果になります。

 新しい子どもたちにとって自分がどのように受け入れられるか、心配なときに先生や子どもたちから「失敗してもいいよ」『自分のこと受け入れてくれている態度』を示されることでこの園に入ってよかった、新しい場でも頑張れそうだという感覚になります。安心できる場を作ってあげられる先生や保護者でいたいものです。もう、大きくなったんだから『頑張れ』ではどのように頑張ればいいのか理解できないのが子どもです。

 この事例のように家庭でも最初に具体的な約束事を示し、説明することで子どもは安心して『自分から○○する』という主体性が育ちます。これからの生きる力の中でもっとも大切なことが困難を乗り切る力を育てると同時に『言われないでも自分から○○する』という能力を見つけ、子どもに気づかせる働きかけといわれています。さらに、子どもに指示したり、頼んだことが出来ているのを『見ようとしない、見ない、見れない』という態度でなく、見つける眼と見つけたら『有難う』という感謝の言葉を子どもに発することで子どもは『認められている・受入れられている・愛されている』という気持ちになり、人を妬まなくなったり、人の話を聞こうとする態度が養われます。

 このように具体的な約束事を決めることは家庭で共通にしなくては効果が上がりません。園では教職員全員が同じように『可愛いねと思って保育すること』『お互いが有難うのいえる生き方をすること』という共通の考えで保育することを時々確かめています。家庭で同居している祖父母がいれば必ずほめることや叱ることが同じ考えで態度に示すことです。もし、ちがっていると一番困るのが子どもです。するとかんしゃくもちとなってしまうことになります。

園長  飯田和也

子どもを信じることも大事だか状況判断して危険に近寄らせない生き方

 一歳を少し過ぎたヨチヨチ歩きの男の子がガラス細工や小さな置物、様々な色とりどりのお土産が並んでいるお店の中に入ってきたときのことでした。この男の子は小さな品物がところ狭しと並んでいる店内を、自分の目で見ながらぶつからないように品物に触らないようにヨチヨチと歩いて入ってきました。すぐ後には五歳ぐらいの男の子が追いかけるように入って来ました。母親は入り口で父親と話しながら見ているだけでした。すると、幼い子は自分からきれいに光っているお土産の置物を見つけちょっと触ろうとし始めました。ソレを見たお兄ちゃんは止めようとして抱きとめると、一歳ぐらいの子は抱かれたことを嫌がってもがいて降りようとしたとたん、『がーん』という大きな音がして兄弟は陳列台に寄りかかり台の角にぶつかりました。飾ってある品物が落ちそうになると同時に口が台にぶつかり血だらけとなりました。母親はあわてて飛んできて弟を抱きかかえて、品物が壊れていないか見て『ごめんなさい』『ごめんなさい』と平謝りの場面となりました。

 母親の状況判断の甘さにより一歳の子どもの口を切り、兄には弟を自分が持ち上げたことで品物を壊し、弟を抱いたことで怪我させてしまったという嫌な思いを与えたことです。また、親が注意しないことで他人に迷惑をかけた場面となりました。一歳の子どもの能力として『自分で○○する』という主体的な行動ができている場合もあります。じっと観察したり、においをかいだり、音を聴いたり、少し触って熱いか、冷たいか判断している場合もあります。そのように自分から見たり、聞いたり、触る力を伸ばすために見守ることも大切ですが、状況によっては子どもの命に関わることもあります。車の往来の激しい場所、川で水遊びをしているとき、友達と遊んでいるとき、相手の能力や性格によってはちょっかいを出してしまうときなど、親として子どもの行動への注意を怠ると一歳・二歳の子どもには状況判断するための情報を得る力がない場合があり取り返しのつかない場合もあります。

 親という字は、木の上に立って、長い目で見守るという漢字のように保護者として、幼い時期は特に、子どもに背中を向けないで『飛び出さないか、水に入らないか、口の中に物を入れないか、人に物を投げないかなど』安全かどうかを見ていることが重要です。家族全員で子どもの命をなくさないこと、大きな怪我をしないように注意することと同時に人に迷惑を与えないように気をくばることです。子どもが初めての場所や遊ぶとき、最初に約束事を作り、守ることが大切になります。しかし、ここで重要なことは、約束を家族一緒に考えることも大切といえます。親が頭ごなしに『○○しなさい』と決め付けて押し付けるだけでなく『何故守ることが大切か』を時々説明したり、示すことです。幼い子どもに対しても具体的な分かる言葉を出来るだけ使うことです。相手に理解できるように物に触ったり、事物を示すことと同時に失敗する姿を見せることも大切になります。さらに、家族で約束を守ったときに当たり前でなく具体的に「○○を守ることが出来てお父さんもお母さんも嬉しい」という言葉をかけることです。
 当然、お父さんやおかあさんが約束を守る家族でいたいものです。守れないような約束は子どもにしないことも大切なルールといえます。

 親として子どもの命を守ることと同時に子どもには『他人に迷惑をかけない』『物を大切に生きること』などこれから困難が多い人生の中で生きる喜びや生きる力を身につけるための約束事を家族で見つけたいものです。

園長  飯田和也

四月は新しい『出会い』 があり、親も子も楽しみ、広がり、 深めるチャンス

 親子で新しい出会いを与えられたとき、親は子どもを通して人間関係が広がり、自分自身の生き方を
見つめなおし感謝できることが大切ではないでしようか。子どもが生まれてきたとき「授かってよかった」と思うときも多いが、どのように育てていいか悩むこともあり大変なこともあります。そのように悩んだとき相談する相手がいれば助かるが一人で悩み、苦しみながら幼稚園や保育園、小学校に入る時に不安と期待が入り混じっている場合もあると思います。

 お母さんやお父さんが新しい出会いを楽しみにし、喜びが与えられるチャンスと捉えて接する場にしたいものです。しかし、新しい場で友達ができるだろうかとか喧嘩していないだろうか、トイレうまくいくだろうか、先生や友達に挨拶できるだろうか、怪我しないだろうかといった不安や心配が強すぎると子どもにとっては
親の姿が鏡
となり、新しい場で友達に対して「どのように接していいか心配」「どのように話していいの」「トイレどうしよう」
といった不安な行動となります。
このような不安や心配にならない態度ができるためには、
親は「先生に任せれば安心」「園の方針を信じれば大丈夫」「この子は友達を見つける力あるから見守ればいい」といったおおらかな態度を示す
ことです。
しかし、
ただ、すべてみているだけでいいとか、任せておけばいい、
預けてもらえればいいという態度は、気が付いたらわが子の発達を見つけることができません。相手任せだけにするのでなく、
どのような行動を新しい場でしているかを観察することで一年たったときに成長・
発達をみつめ大きくなった喜びがより多く味わうことができます。ただ「泣いているな」「たっているだけだな」「だまったままだな」と観察するだけでなく
四月に約束事を丁寧に説明し示すことです

多くの約束をするのでなく最初は「泣いてもいいのだよ、先生が優しく教えてくれるからね」「上手に出来なくてもいいよ、
友達や先生がゆっくりとおしえてくれるからね」「おはよう・有難うといえると気持ちいいね、大きな声でなく小さくてもハッキリと言えればいいよ」「カバンや靴を自分の場所に元にもどすことが出来ればなくならないからね
・・」といった
ことを『何故、するかを分かりやすく
説明することも大切です』
このようなことを
四月にすることで守ったときに具体的にほめることができます。
また守れなかったときにきちんと叱ることができて
ほめ上手・叱り上手」な親
となります。

 しかし、
不安感や心配させすぎるような脅したり、責めたり、注意しすぎたり、文句を言いすぎるのでなく最初は失敗しても見守ってくれる友達や先生がいることを
気づかせる言葉かけを
することで「自分から○○する」
主体的な行動が出来るようになり、困難を乗り切る力を身につける生き方ができます。この四月という新しい環境を通して


生きる力を

育てるチャンス
として捉えたいものです。幼稚園、保育園、
小学校という新しい場を通して子どもも親も相互作用で発達することを
理解したいものです。幼児教育の結果は五年先、
十年先、
二十年先に花となって開きます。
この時期に劣等感を持たせたり、自分で困難を
乗り切る力を失くしてしまうことのないような生き方を親子で育てたいものです。このことは、子どもを
授かった人でないとこのような喜びはなかなか与えられません。
一年先に「子どもを
産んでよかった」という生きる喜びを
親子で与えられることを
願っています。 

 園長  飯田 和也

もうすぐ一年生・人生の節目を乗り切る力

 もうすぐ一年生ということで親は、期待と不安が入り混じっていることがあります。
 一年生になって新しい学校という場に出会ったとき、「友達が見つからないから嫌、何していいかわからないから不安、勉強できるか心配」という子どもにさせないために周囲にいる大人が自信を持たせる配慮が大切なときといえます。
 人は人生の様々な節目の場面に出会います。節目が辛いとき、苦しいとき、嫌なことや意地悪な人に出会っても自分から切り開いていく力を親として持たせたいという願いになります。

 心配しすぎたり、脅したり、期待過剰となったり、過保護になると子どもは一人で困難を乗り切る力や自分から進んで行動する力を身につけることが出来なく将来の生きる力に影響を与えます。このような人生の節目のときに子どもに対して不安を与えないこと、「自分から○○する」という主体的な行動が出来ていること、集中し熱中する力があり「生きる力」を持っていることなどを気づかせ、子どもに自信を持たせて迎えさせたいものです。それには多くのことを要求しないでいいところひとつ見つけ、 能力があることを 気づかせることからはじめることだと思います。周囲の大人が心配しすぎると子どもは不安になります。毎日の中で、親に愛されていることで安らぎの場が家にあり、考える力、人に言葉で伝える力、安心して生きる喜びが与えられる中で「生きる力」が養われます。

 今、この時期で子どもたちに大切にしなければならないことは、集団の中で子どもが集中し、我慢して友達と同じ行為ができているか、周囲の刺激に左右されて注意散逸になっていないかを見つけ、気になる行為があれば少しでもできるようにする時といえます。

 しかし、 ふらふらしたり、人の話を聞いていなかったり、自分勝手な行動をしていとき、文句やケチだけをつけて正すことはなかなか直らない場合があります。そのようなとき、保育や家庭において「まず簡単な約束をする」ことも重要になります。例えば、紙芝居を見せるとき「・・の紙芝居を読むけれど、約束してね、一つ目、友達と同じように全員静か聴いてね。二つ目友達が見ているとき邪魔しないでね。」と二つのことを約束します。出来そうだから 聞けそうだからと多くのことを 要求したくなりますが二つにします。

 一度にたくさんのことを 伝えると全部しなければならないという感覚でかえってマイナスとなる子どももいます。そして、紙芝居を読みながらいつもふらふらしている子、勝手にしゃべっている子、見ていない子の行動をみます。 当然、全員を ひきつける紙芝居の読み方をします。また、見たくなる紙芝居を選び能力に併せて準備します。このような配慮をすると全員が静かに聴いて、ふらふらしないことがみられます。

 そのときに「先生は、最初に約束したことが守れてびっくりしたよ、・・チャン、・・くん、 クラス全員の子どもがしゃべらないで静かに聴き、ともだちのじゃましない姿にびっくりしたよ。一年生になってもきっと友達のじゃましたり、騒がないで人の話が聴けると先生は信じるよ」という話をしました。一年生になるに対して不安にさせたり、脅したりして小学校に送り出すのでなく、自分には「人の話を聞く態度と静かに出来る力を 持っているという自信」を 持たせて最後のまとめにする大切さを感じました。出来るような約束のある「保育」をして本当は静かにする力をもっていることを見つけ、そして、子どもに能力があることをきづかせ、 親に信じてくださいと伝えることと思いました。

 このような保育をしてみて同じように家族の方に、文句やケチを言うだけでなく、最初に「出来る約束し」守りたくなるような絵本を読んであげてみてください。多くのことを要求しないでできるような簡単な約束をして、守ったときほめ、共感してあげ自信を持たせて人生の節目を乗り越える力を持たせて「生きる力」をつけて欲しいと願っています。 

園長  飯田和也

わが子が一年生になる前に

子どもたちに「学ぶ意欲と考える力」 が不足しているといわれている中でどのように力をつけたら良いか考えさせられます。
 社会や家庭、学校における様々な環境からの影響を受けて子どもたちは育っています。「人は環境を 通して相互作用で発達する」という言葉を整理しながら一年生になるときをどのように迎えたらいいか参考にしていただければ幸いと思います。小学校は幼稚園や保育園と異なる環境を分かりやすく説明してあげることで不安感を失くすこと、学校に行きたくなり学ぶ意欲を結びつけ生きる力を育てるための配慮が必要といえます。

 子どもが勉強して学ぶ意欲となる机と椅子を選んであげたいものです。自分から勉強したい意欲と考える力がつくため集中できる机と椅子が必要です。机の前には派手な色や気が散るアニメの絵や多種多様なものが附属しているのでなく、シンプルなデザインで集中できる机と座ったら動かないタイプの椅子で身体の大きさに合わせることが出来るものです。
 与えるときの約束事として引き出しに何を入れるか、カバンや袋を置くときは必ず元にもどすこと、整理整頓することで大切なものがなくならない。また、周囲を清潔にすることで病気にならないといった約束をすることです。明るすぎる部屋でなくカーテンも可愛い絵柄から単純で集中できる雰囲気に環境を整えることといえます。 兄弟姉妹がいる場合には、カーテンを使って「自分の空間」を作ってあげることで「自分をここまで愛している親」がいるという感覚になる場合もあります。
 机の引き出しや部屋には自分から元に戻したくなる整理用のボックスを用意し、本・教材・おもちゃ・道具などを 別々に片付けやすい大きさかを工夫します。それには一緒に行動して子どもの眼・耳・手・足になってみて本当に片付けたくなるかを味わうことも重要といえます。子どもの考えを聞いてアイデアが出たときに貴方は『考える力』を 持っているねと伝えたいものです

 また、学校の行き帰りのルールを親子で話し合うことと一緒に通学道路を歩くことで子どもが安心して一年生になりたい意欲を 育てることも配慮といえます。通学路の途中に犬がいるだけ猫がいるだけで動けない子どももいます。そのようなとき、この家の犬は触っていいが他の犬は注意してね。信号機のある所とそうでない所の危険を親子で一緒に行動してモデルとなる親をみて安心できる子もいます。この川には絶対に入らない。このトンネルや暗いところでは変な人がいないか、怖くなったら逃げることなど示し、分かる言葉で説明し安心して通学できるための体験をしたいものです。

 また、学校の環境は幼稚園や保育園と違い靴の置き方、トイレの使い方、雨のときの傘の扱いなど近くの通学している子どもの親に聞いておくことも大切といえます。地域によっては集団登校する場合もあります。 一緒に登校や下校するお兄さんやお姉さんと遊ぶことや紹介しあう場も配慮してあげることでさらに安心して通学できます。親は友達が出来るだろうかと不安になりますが、一度にたくさんの友達を作らせるのでなく「一緒に泣いてくれる友達一人でいいからね」と伝えたいものです。すぐに見つけられる場合とみているだけ、声を聞いているだけ、傍にいるだけで楽しいとき、またじっとテンポの合う子を探すのが最初です

 「給食を全部食べないと一年生になれない、いつも泣いてばかりいると学校に行けない。勉強が出来ないと一年生になれない」といった脅して育てるしつけは、不安感を与えることになるので絶対にやめたいものです。またすべての教科に満点を取りなさいというしつけでなく、「得意な科目一つ見つけてね」といったすべて出来る事でなく得意な箇所を みつけ「考える力」 があることを気づかせることです。

 子どもに 能力があることを気づかせるしつけを通して学ぶ意欲を育てること、そして自分には考える力「生きる力」をもっていると信じさせ一年生を迎えさせたいものです。 

園長  飯田和也

先生・お母さん「学ぶ意欲も考える力」もあるよ、見つけ・伸ばして!

 幼児教育は幼稚園も保育園も同じ考えで行われていますが園長の考えによって大きな違いが見られる現状です。子どもが上手にすべて出来る事が良い幼児教育と思い込んで子どもに押し付けている教育、能力がある子どもだけを大切にしている教育、できない子がつらいときを大切にしていない教育、ものや友達を 大切にしないで知識と技術中心の教育など様々見られます。
幼児教育の中で

1、遊びを通して総合的な保育
2、人は環境を通して相互作用で発達する
3、主体性を尊重する

ということが重要といわれています。
 この三つのことを本当に正しく理解して生きる力を育てなければならないと思います。しかし12 月5日の新聞によると、「日本の高校一年生、理数も不振」と大きく取り上げていました。それには、経済協力開発機構(OECD)は、世界の57国・地域の15歳約40万人を対象に昨年実施した学習到達度調査の結果を発表した。新聞によると「読解力、数学的応用力、科学的応用力などいずれも回を追うごとに平均得点が下がっている」と示していました。日本の教育は他の国に比較して考える力や学ぶ意欲の低下が浮き彫りにされたという報道でした。

 また今春の学力テストでは「活用力に課題がある」ということも言われています。学力低下の原因は何か考えなければならないにしても「学ぶ意欲・考える力」を生きる力の中に取り入れることが重要といえます。学ぶ意欲や考える力を育てるには、幼児教育において上の三つのことを理解していることといえます。しかし、教え込めば出来るという考え、与えればできるようになる、覚えさせれば知的に高いという考えだけではないことを先生と言われる人と親は特に見直ししなければならない警鐘といえます。赤ちゃんのときからお母さんの顔をじっと自分で観察し他の人との違いを捉えています。お母さんやお父さんの声を聞き分け、口に入ったものを自分で味わって判断しています。幼児になると真似をしなさいといわれなくても自分から親の動きを見て真似するなど主体的な行動をして知的発達を持った生き方をしている乳幼児です。

 しかし、折り紙でも折り方を 教えて上手になればいいという先生や親はこの新聞報道から「学ぶ意欲・考える力」を育てていないということを反省しなければなりません。子どもは親や先生の折り紙の折っている姿をじっと面白い・不思議・楽しそうと見ています。(当然、子どもの能力に併せた教材と先生やお母さん大好きという気持ちを大切にしていなければなりませんが)このとき子どもは見なさいといわれなくても自分から見ています。ここが知的発達の主体的な場面です。「真似しなさい」といわれなくても真似して同じように折り紙をしています。ここも自発的で知的発達です。

 そして子どもは自分なりに工夫して人差し指を使用したり手のひらをつかったりしてアイロンをかけます。この自分なりに工夫して折って考える力を使っています。このように知的発達の中身を見つけ、共感することで子どもは「自分のことを認められ、愛されている」という感覚になります。その中で「学ぶ楽しさから考える力となり、生きる力」が沸いてきます。遊びを通して総合的保育といわれている中身を分析するとこのように大切な場面となります。乳幼児のときに子どもは専心没頭して遊んでいるとき「知的発達している」ということを見つけることです。遊んでいるからいい、あそばせているから大丈夫、勉強させているからいいというのではありません。

 よい大学を 選ぶよりよい幼稚園や保育園を選ぶことの重要という考えを持たなければなりません。知的発達を伸ばすかは園や家庭において「共感や問いかけ・助言、励まし」などタイミングよくすることです。大人や友達のほめ上手や叱り上手な態度から生きる喜びを味わい生きる力を育てると同時に「学ぶ意欲・考える力」も大切にしたいものです。 

園長  飯田和也

地域の老人施設との触れ合い〜おじいちゃんとおばあちゃんの涙から「生きる喜び」

 地域の老人ホームにて「おじいちゃん・おばあちゃん長生きしてね」また「いつまでも元気でね」「大きな栗の木の下での唄聴いてくれてありがとう。」「自分たちが作ったのだよ」と手作りのプレゼントを手渡して握手したり、肌をさすってあげると、いつも寝たきりで声もださなく、表情の乏しいお年寄りが年中組「四歳児」の子どもたちの声を聞いたり、肌の温もりを与えられたり、プレゼントを受けたことで「あ・り・が・と・う」と大きな涙をポロポロとほほに流しながら、はっきりとゆっくり、大きな声で伝えている姿を見て指導員や保育士たちが涙を流している姿にもらい泣きをする園長でした。

 このような子どもたちとお年寄りの触れ合う姿からお年寄りの人々に対して「生きていて良かったね」[長生きしてね]といった触れ合いから子どもに優しさとおもいやりを育てるだけでなく、お年寄りに対して「生きていて良かった、長生きして良かった、嬉しい気持ちになるチャンスを与えられた」といった生きる喜びを与える保育の大切さを教えられました。

 老人ホームを訪問する子どもたちの中には[気もち悪い]とか[怖い]と感じる子も見られるそうです。しかし、施設で働く人々から「ここの子どもたちは少ないですね]という言葉を頂いたとき、瞬時に「この子どもたちは先生や友達から愛されています」と伝えると「それはどのようなことですか?」という問いかけが返ってきましたので、「先生たちのほめ上手な言葉かけがあります。〇〇ちゃん、ここが上手だよ。また、子どもたちから〇〇くん、上手だよ」という具体的にほめることで自分は受け入れられている、認められている、愛されているといった感覚になり、自分を信じ、人を信じる生き方、そして人の話を聞く態度が育っていますと伝えると「なるほどそうですね」という場面になりました。

 この幼児期に自分を大切にして知的発達の主体的な力を気づかせてくれる人がいることで、自分には考えること、工夫する能力があり、自分は自信をもってもいいのだという生きる喜びを与えられることになります。このような自信を持つことが出来る体験から自分を信じることに結びつくことになり他人をも愛することができるということになります。
 人から愛される体験なくして急に他人を愛しなさいという生き方はできません。幼児期から愛されることで人を愛するという態度が身につきます。新しい場面に出会ったときに静かに人の話を聴く態度があり、人を愛する行為に結びつきます。このようなことは大人のモデルとして、人を愛する姿が大切になります。周囲の人々に対して無関心な態度、例えば「愛情の反対」をとっていると子どもは友達や大人にも無関心な場合もあります。

 時々、幼稚園や保育園の保護者の集まりで、自分の子どもが友達に迷惑をかけているのに叱れないお母さん、静かにしなければならない場面で自分が大声で話し静かにできないお母さん、他のグループが静かに話し合っているのに、自分のグループは大騒ぎをしていて静かにできないことを気づかない態度、公共の遊具や道具を大切に扱うことを子どもたちの前で示せないお母さん、子どもが家に帰る時間、夜寝る時間など守らせることができないお母さんは子どもに対して問題のモデルといえます。
 このような態度を子どもたちの前で見せることで、将来子どもたちは約束を守らない、人の話を聴こうとしない、ものを大事に扱うことができない、言葉が乱暴な態度をするなど悪い影響を与えていることを肝に銘じておきたいものです。子どもは母親や友達から愛されていないことでわざと自分の方にひきつけようと努力したり、乱暴になったり、相手に無関心な態度をすることに結びつく場合があります。

 常日頃、親や保育者は、子どもに対してモデルになっていることを再確認することが大切といえます。人を愛する態度を子どもに理解できるような説明やモデルを示すことで、子どもたちは自発的に挨拶し、ものを大切にし、お年寄りや赤ちゃんを大事にする態度に結びつきます。人生のルールを守らせ生きる喜びを味あわせる場としてお年寄りとの触れ合いも工夫したいものです。

 地域の中でお年寄りと触れ合うことが少なくなっているとき、老人ホームなどの訪問を通して子どもにお年寄りのうれし涙を味合わせたいものです。お年寄りが何故涙を出しているのかを考えさせられる場面を味合わせることで「生きる喜び」を少しでも理解できます。
 また子供たちに、お年寄りに対して『肩をとんとんとたくさん叩いてあげて、優しく揉んであげて、笑顔で身体をさすってあげて、可愛い手で握手してあげて』と言ってスキンシップを通して肌の温もりを与えることでお年寄りがニコニコと笑顔になった体験を味あわせることで自分たちも幸せな気持ちになることが大切な触れ合いといえます。地域で老人ホームやディサービスでの触れ合いを通してお年寄りに「生きる喜び」を与えられる幸せを説明することも親や保育者の協力が必要になります。

 地域全体が『生きる喜び』の大切さを認識しお年よりがいつでも「長生きして良かったという喜び」を体験できる雰囲気を作り、地域の組織として協力できるようにしたいものです。子どもたちが老人ホーム、ディサービスなどに安心して訪問することが出来る環境や雰囲気作りを施設は配慮することと同時に地域の中で温かい「人を大切にしている雰囲気」を満たすようにしたいものです。明るく挨拶する姿やニコニコ笑顔がありお互いを受け入れ、信じあって生活していますよ、という雰囲気を子どもたちに示すことがもっとも重要といえます。 

園長  飯田和也

お母さんの涙から教えられること

 五歳児が男女に分かれて大きなパズルをつくり、それを競争して全員で完成するという場面に出会った時のことでした。女子のグループで友達に手を引かれて、パズルを渡されてその部分を併せている子が目につきました。
 その子は手を引かれているが絵をみるとさっと判断して一部分を正確に当てていました。一言も声を出さないが前の子から手にタッチされ、そして次の子にタッチさせられている場面でした。 しかし、先生や友達の行動をじっと見ているときはキラキラと光っている女の子でした

 園長先生に「どのような子ですか?」と尋ねると「三月まで集団に入っていなくて、園ではまったく言葉が出ません。しかし、家ではおにいちゃんや家族の方とも話しをしています」という説明がありました。「お母さんはどこにも相談もしないで周囲の人と関わりも持ちたがりません。学校のことでどこかに相談に行って欲しいのですが…。」という言葉でした。
 そこで「この子は友だちをよくみていますね。先生の話をじっと聴いています、パズルも認知能力がよく判断力も見事でとても感性が鋭く頭のいい子ですよ、お母さんにぜひこのことを伝えたいのですが会えますか」というと担任が電話をしました。

 しかし、母親は電話口で渋っているようでした。その様子をみて「母親に素晴らしいことだけ伝えさせてください」と言って電話を代わっていただき「電話ですけれど、パズルの遊びをしている場面をみて、感性がするどく、頭のいい子ということをどうしてもお母さんに伝えさせていただきたくて電話しました。本当に素晴らしい能力のあるTちゃんですね」と伝えるとびっくりした声に変わりました。
 そして「この子の感性の素晴らしいところを信じてあげてください」といって電話を切りました。

 もうお会いすることもないと思い食事をしていると、突然どうしてもお会いしたいとお母さんが面会に来られました。
 そこで「パズルの場面では、他の子どもたちは、どこにおいてあわせたらいいか、悩んだり、話したり、まったく合っていない子もいる中、瞬時に判断し、一瞬に置く場所を見つけていました。大変頭のいい子ですね。パズルを捉える力、友達の行動を観察する力、先生のことをよく聴いて判断する力が育っていますね」と伝えると、ポロポロと涙を流す母親でした。

 さらに五月の時描いた絵は、黒い空に黒い太陽、そして小さな黄色のバスが描かれていました。それに対して運動会の絵は、真ん中に金メダルをつけた本人、両脇には友達が真っ赤な運動服を着て金メダルをかけ、アニメの顔の旗が遠近法で描かれ空はきれいな空色で真っ赤な太陽が描かれていました。
 母親に「真似るは学ぶ、学は創造力」と言う言葉のように友達の絵を真似していますよ。「自分で〇〇する」という主体的な生き方ができている素晴らしい絵です、この子を授かってよかったですね」と言うと涙をまたポロポロと出すのでした。
 「この子は頭を使うことができる子なので、おにいちゃんがいるのであれば、自分を受け入れてくれる年上の子や可愛がることができる年下の子と遊び、今は同年齢の子と遊ばせることにこだわらないほうがいいですよ。いいところを見つけ信じてくれることで自分は愛されていると感じ、人を信じて生きる力になります。母親が信じることが第一です。今日はご主人にも伝えてください」と言うとまた涙を流す母親でした。

 次の日園長先生に手紙が届いていました。
 お礼と同時に「・・正直なところ、はじめは気が進まなかったというか怖かったと言うのが本音です。 今まで責められることが多く、また駄目だしされるのでは…と、ちょっと臆病になっていました。でも思い切ってお会いしてみて本当によかったです。
 たくさんのお褒めのお言葉やアドバイスをしていただいて、抜け道への光が見えたような明るい気持ちになることができました。
 今までと違った、力を入れない接し方ができそうな自信をもいただいた気がします。前を向いて、受け入れる生き方…
。 絵のことをほめたら飛び切りの笑顔で喜んでいました。 いつも否定する感じが、昨日は素直に受け止めていました。」(手紙より)

園長  飯田和也

親は子育てにおいて、忍耐を学び、生きる喜びと希望と幸福を知る

 親になるとは、我慢することから始まります。母になる前は、自分本位に生きていればよかったが、子育てが始まったとたん自分の思いとおりにならないことを味わうのが親です。その中で子どもを 授かった喜びや産んだ充実感も味わうことになります。

  しかし、我慢の始まりとして子どもがおなかすいたというサインが出たとき 「おなかいっぱいになったという満足感を与え、もっと飲みたい・食べたいという意欲がでるような工夫をし、前に比べると匂いを嗅ぐだけでも進歩した、一口、味をみただけでもいいよ、すこしでも食べられてよかったね」という言葉をかけることで、生きる喜びを子どもに味合わせることになります。

また、子どもが高い熱を出しているときのサインを見つけることも重要といえます。しかし、子どもの体調が悪いのを『見ない・見れない・見ようとしない』という子育ては問題な母親といえます。子どもの熱があるときのサインとして、顔色が悪くなり、赤くなったり、震えてきたりしている状態があり、そのような状況を見つけるのが親として大切といえます。そして、母親は熱が出たときに「なぜ」かということを一生懸命考え、原因を見つけ、対処するのが母親です。氷枕・水枕・薬などで下げようとして医者に連れて行き処置をしてもらう態度をします。熱の高いときには、子どもは自分では下げることができません。その状態のときに、母親から手をにぎってもらったこと、おでことおでこをあわせてくれたこと、母親の肌の温もり、柔らかな大きな手の感触の温かさは一生忘れないものです。そして『熱が下がり始めたとき』もういいだろうと母親の勝手な判断をするのでなく、その子の健康状態を把握しているかが重大となります。医者からの「許可」なく集団に入れることで病気に感染したり、再発してこじらせて入院することのないような配慮を親としてしなければなりません。園生活で再発がないように医者からの指導や汗をかいたら拭くこと、上着の調節をすることなど、子どもの体力や能力に併せ、『命の大切さ』を伝える母になりたいものです。この熱の高いときに親の温かい世話により「生きているよろこびを味わう」ことになります。このような生きる喜びを親から受けることで自分はお母さんと生きていたい、お父さんと一緒にいたいという「生きる力」に結びつきます。

 辛いときに優しい言葉と温かいぬくもりを与えられる態度、さらには、自分のこと愛しているという笑顔を母親から与えられることで「生きている喜び」を味わうことで「生きる力」が湧いてくることになります。このように子ども時代に親からの愛されている感覚、優しい笑顔を与えられることで友達を愛する態度が育ち、人の言葉を静かに聞こうとする態度も育ちます。母親が子育てを通して「子どもを愛する態度が育つことで、母親自身のゆったりした、おおらかな態度となり、どんなことでも子どものためには逃げない母としての優しい・強い・温かいゆったりした顔となり、 素敵な母のもつ笑顔になります

 子育ては苦しいことや辛いことが多い中で子どもを産んでよかった、 授かって幸せという感覚になることは、大変なことが多ければ多いほどその後に大きな喜びとなり、人生を もっとも充実した生き方となります。自分でしか咲かせられない自分という花を咲かせるために子育ての辛いときを 乗り切る力を持つのがお母さん、お父さんといえます。 

園長  飯田和也

お母さん「ほめ上手」でいてね

 ほめ上手な人の傍にいると心が温かくなります。しかし、人の欠点ばかりを言う人の傍にいると心が貧しくなった感覚となり悲しくなってしまいます。

親となり子育てが忙しいときに、なかなか子どもをほめることができない場合があります。毎日、食事・洗濯・買い物・掃除などの家事に追われてゆとりのないときに「ママ」『ママ』 と呼ばれても落ち着いて向き合うことができない日常が多いと思います。時々、お子さんのいいところを 教えてくださいという質問をすることがあります。親子遠足においてもクラスで家族紹介をします。そのようなときに、クラスの友達やお母さん方の前で、「わが子のいいところを 紹介してください」と伝えます。しかし、なかなか人前でわが子のいいところを 伝えることが困難なことがあります。人前で自慢話となって何か言いづらいという気持ちもあります。このような中で全員が子どものいいところを 話すという機会としてチャレンジしていただいています。

 子どもにとっては、初めて人前で自分のことをほめられるという体験になる子もいます。恥ずかしくてなかなか自己紹介のできない親や子も見られます。しかし、ほめられる子どもにとっては「え」 「あれ」「おや」といったいつもと違う感覚になる場合も見られます。そのようなときに、お母さんやお父さんから「いつも食べた後の手伝いができています」「 妹や弟を可愛がってくれます」「お風呂の掃除手伝ってくれて有難いです」「自分から〇〇してくれます」といったほめ言葉を聴いている子どもの笑顔がとてもうれしそうであり、自信をつけているようです

 ほめ方の第一歩として身近な人を受け止めていただくことを 願っています。急にはなかなかほめることができません。 どうしてほめることができないかというとほめる相手をよく見ていないからほめることができないということを 気づくと思います。悪い箇所はチラッと見ただけで気づくことができます。「挨拶ができない」(本当は口の中や小さな声でおはようと言っているのに)。「ご飯やおかず全部食べない」(今日は体調がよくなくて食べたくない日、眠くて食べられない、おなかがいっぱいだが少し食べられた)。「ひらがながなかなか書けない」(自分なりに書いている)といったことを見つけるのは簡単といえます。しかし、子どもはできていることがたくさんあります。『いいところを見ようとしない・見ない・見れない』といった 大人の立場、都合に合わない行動をしていると悪いと決め付けてしまう場合もあります。

 人前でほめようと思っていても、悪い箇所を直すことを中心にした子育てをしていると、子どものいいところを見る眼をなくしているのではないでしようか。 いつも親から否定されたり、 けちを つけられたり、 文句ばかり言われていると人に対していいところを 見ないで悪い箇所ばかりを 捉えた生き方をする習慣になってしまう場合も見られます。劣等感の強い生き方となり偏った性格になる場合もあります。ほめ上手とは、子どものいいところをみつけること、それにはじっとよく観察すること、そして子どもを 『受け入れる』という生き方を していないとほめる行為に結びつきません。

『〇〇片付けて』と頼んだときに片付けすることが当たり前という態度でなく、こんな風に片付けるやり方が工夫できてきた、成長・発達しているなと感じる力が『ほめ上手』は必要になります。「半年前に比べるとここができるようになったね」といった観察する眼をもち、工夫している態度が理解できることです。ほめ上手なしつけにより子どもは自分から〇〇しようといった『生きる力』を身につけ始めます。どうか子どもや家族に対して「ほめ上手」な母親でいてあげてください。 

園長  飯田和也

二月はいいところみつけ三月へ

 二月は保護者も先生も子どものいいところを見つけ三月で生きる意欲に結びつける触れ合いへ…。
この時期、子どもの行動の中でまねしたり、自分なりに工夫したり、集中しているなどいいところを見つける眼を自分自身が育てたかを、チェックする絶好のチャンスといえます。なぜなら入園(入学)して一年近く経過しているのに悪い箇所ばかり眼について注意だけしていると、子どもは受け入れられていないと感じて自分から進んで行動する意欲をなくしている場合があります。

 子どもにとっては「自分は大きくなった、いろんなことが出来るようになった、一年前に比べて道具も扱うことがわかった、お母さんや先生の言っていることも判断でき自信がついてきた」という場面になってきて嬉しいと思っている子も多くいます。

 例えば、一年近く月日が経つと挨拶がはっきり言えなかった子が大きな声で「おはよう」「バイバイ」と言えるようになっています。またトイレでズボンを脱いだり、はいたり出来なかった子が自分から出来るようになっています。しかし、先生やお母さんが「出来ない部分だけ」を一生懸命に直そうとしてガミガミ小言ばかり言っているとなかなか直そうという意欲に結びつかないことになります。大人から何度もしっこく言われると「わかっているのにウルサイ」と聞く耳をもたない、さらにはいつものことだから「聞いているだけにしよう」と意欲をなくす場合もあります。生きる力を持たせる時期として二月・三月がもっとも大切といえます。

 四月から新しい環境の小学校に入学し、また大きい組に進級する子どもたちに「大きな自信をもたせる時期が二月・三月」です。しかし、一生懸命ひらがなを自分なりに工夫して書いているのに「そんな字かけないと学校に入れませんよ、」辛くて悲しくてシクシクしていると「そんな泣いてばかりいると大きい組になれないよ、」がんばって食べられるようになったと思っているのに「全部おかず食べないと四月から大きい組でなく小さい組になってしまうよ」といった脅しを言い過ぎると自分は「出来ない子」「食べられない子」「絵もかけない子」といった劣等感を身につける場合も見られます。劣等感を抱かせるような叱り方や注意をするのでなく、いいところを見つけて「生きる喜び」「生きる力」をもたせることで三月を一年間のまとめの時期として過ごさせ、自信をもたせてあげたいものです。 親、また先生として子どもを見つめる時、いい箇所を捉える力を持っているかどうか時々見直したいものです。

 一年じっくりとよく見ていればいえます。しかし、よく見ていないといいところはいえません。また、子どもを心から愛して受け入れないとほめることはできません。成長したところを見つけるためには、友達とどのようにかかわっているか見つめることで把握できる場合があります。子どもを見ていると友達からの影響で大きく成長をしています。たくさんの友達を見つける必要はありません。共に泣いてくれる友達一人で良いからもう一度見つけてあげて欲しいものです。

 友達と仲良くなり、その相手の絵が上手であったり、ひらがなを書いたり、歌っていると一緒になりたい、遊びたいということで相手をよく見て、そしてまねをしようとします。そこには知的発達の育っている場面となり、そこを見つけるのがお母さんや先生といえます。わが子がどのような友達とかかわりたいか子どもを本当に愛するお母さんや先生なら判るはずです。

 自分のこと受け入れ、愛してくれる友達をこの時期に見つけ、三月でさらにかかわりをふかめて新学期にむすびつけたいものです。親や先生として子どものしようとしている箇所を見つけることが、出来ていない場合に残りの月日で成長・発達したところをとらえて気づかせ自信を持たせるのが愛情といえます。
このように生きる力を伸ばす時期を見失うことのないようにしたいものです。 

園長  飯田和也

家庭で道具を使わせて「生きる力」を育てるには

 短大生が施設実習に行ったときそれまで経験していないことで戸惑い、困る場面が全国で多く見られるようになり話題になっています。家庭では箒を使わないために畳の目にそって掃くことができない。また、箒を掃除機のように押してごみを集める。全自動の洗濯機しか使ったことがないために二層式の扱いができない。ミシンや針などを使って雑巾をつくる繕い物ができない。包丁、かなづち、のこぎりを使うことが少ないために指を切ったり、怪我をする学生が多く見られる実態があります。

 このように施設実習が体験できる学生は救われる場がありますが、このような経験をしないで社会に出たり、結婚して子育てをするときに、困難を乗り切ったり、子どもに伝えることが出来ない生き方となっている場合が見られます。

 今、家庭の中で自分の子どもにどのように「生きる力」をつけているか家族で見つめあい、話し合い、そして様々な体験をさせたいものです。親が子どもと一緒に過ごすときに、親が道具を使っている姿を見せているか見直すことが第一といえます。子どもたちはお母さんが包丁を扱う姿をよーく見ています。ジャガイモ・にんじんの皮のむき方、そして、左手を「猫の手」にして丁寧に野菜を切っている姿をじっと見ています。子どもたちは「見なさい」といわなくても自分から観察している子どもがいます。この自分から観察しているときに「知的発達」の高い部分を発達させることが重要になります。「危ないからあっちに行ってなさい」とすぐ追い払うのでなく危険な距離を注意してじっくりと見せてあげることが、思考力を伸ばす秘訣の一つになります。このときに「一度にアレコレとよくばらず」じっくりと見せるのがコツです

 子どもは一度にいくつも見ません。興味ある箇所のみゆっくりとみています。大好きなお母さんが包丁で汚れを取ったり、きれいな形にしていたり、小さくしているのを面白い、不思議と思っています。一つのことを丁寧にみせることで「怒ったら負け」ということを肝に銘じていたいものです。一人ひとりの能力・性格に併せてゆったりとみせることです。親が時間的にゆとりをもって、一つでいいという考え、そしてあせらないで、ゆったりとした「間」を持って示すことです。

 親はごちゃごちゃとしゃべりすぎないで、真剣になってみている子どもの眼の動きに合わせてあげたいものです。その後にわかる言葉でゆっくりと持ち方・扱い方を説明して欲しいものです。子どもたちは何度も同じことをします。「やり始めは下手」は当たり前で最初から上手には出来ないのが子ども。危険のないように扱い方を最初に約束をすることでほめたり、注意したり出来ます。しかし、約束をしていないとほめたり、注意することが出来ません。繰り返し出来るまで見守ることで、子育ては忍耐が必要です。出来るまで「最初は下手・最初は下手」と心に念じて温かく見守ることで自発的になります。失敗しても受け入れられていると感じ「自分から〇〇する」と意欲を持つ生き方になります。この意欲を大切にしていると自分なりに工夫して包丁・はさみ・のり・箒・雑巾がけ・かなづち・のこぎりといった道具の扱い方を身につけていきます。子どもが家庭の中で「・・したい」といったときに「危ないから駄目」でなく危険から身を護るため・自分から道具を使いこなす知識と技術を持たせ「生きる力」を育てたいものです。

「普通の親はしゃべる・よい親は説明する・優れた親は示す・偉大な親は子どもの心に生きる力を芽生えさせる」

 しかし、子どもにしゃべりすぎたり、過保護になったり、無関心な態度では「生きる力」に結びつかないことを肝に銘じて子育てしたいものです。 

園長  飯田和也

自分が使える時間が命、命は生きている時間

 95歳の日野原重明医師の言葉から教えられたこと、それは正月の番組で『子どもたちに命の大切さを教えているが、眼に見えない命を説明していないのが問題である。命と言うと心臓を示すことがあるが心臓はモーターでポンプの道具にすぎない。命は眼に見えないけれど子どもが使っている時間が命である。また命を大切にするには相手を許すという生き方を教えることも必要である』といった話から私たち親や保育者として「生きている時間、自分が使える時間、生きている喜びを味わうことが出来る時間」が命ですよと言うことを子どもたちに伝える工夫が大切と教えられました。また、相手にも命があることを理解し、相手の行為を許す生き方も身につけたいものです。

 子どもが親に勉強しないから、夢がないと兄弟姉妹になじられて相手を殺したり、命の大切さを教えられていても、相手を殺してしまう実態があります。幼いときに「生きている時間、自分が使える時間」は限られているということ、大切にする態度をどのように身につけさせるかが課題といえます。 しかし、テレビの中ではどのように自分で使える時間が命であるかと、いうことの方法や手段は話されていませんでした。幼児教育の専門家として改めて考えたいと思い自分の意見をまとめてみました参考にしていただければ幸いです。

 乳幼児が生きている時間・自分が使える時間を気づくには、愛されていることで生きている喜びを味わう充実感、満足感となって幸せな一時という時間を気づくことになるのではないでしょうか。人は嫌なこと、辛いこと、苦しいことは早く忘れたいものです。しかし、嬉しいこと・楽しかったことなど心に残したいものです。赤ちゃんのときに母親の胸にしっかりと抱かれたときの温かい温もりを与えられ愛されている、自分は幸せだ、そのときの母親や父親の温かい笑顔から生きている喜び、ここを命の源として抑えたいものです。親も保育者もまず乳幼児が多くの人に愛されている、といった感覚を家庭や保育の中で味あわせることが大切といえます。貴方のことを愛していますよ、そしてこの愛されている感覚をしっかりと受け止めて欲しいという願いで触れ合うことです。

 親のそばにいるだけで楽しい、嬉しい、気持ち良いという一時を味あわせること。あなたと一緒にいる時間を過ごせて幸せということを「言葉」で伝えることで『自分が使える時間。生きている喜びを味わう時間』これが『命』と言う実感を持たせることです。子どもは環境や育ち方によって命の感じ方は違います。親から食事を与えられなく、着るものも満足に与えられないような状態のとき、言葉で「貴方は邪魔だ、悪い子だ、汚い子だ」といった受け入れられていない状態が続いていたら生きる喜びを味わうことになりません。自分を否定された生活からは生きていたいといった命を大切にしたい、楽しい時間を使っている命という感覚に結びつきません。

 幼稚園や保育園、学校で子どもから「先生助けて、お母さん見て、お父さんできた、描けたみて、少し食べた見て、歌うから聞いて」と言うサインがでたとき、愛情の反対の無視・無関心と言う態度があります。子どもからの様々なサインを無視する態度をするのでない。「おなかすいた早く食べたい」そしておなかいっぱい食べられて満足した時、大好きな兄弟姉妹や友達と楽しく遊んで充実している時『あなたの使っている時間のためにじっくりと時間を割いていますよ』といった貴方が使う時間・生きている喜びとしての命を感じる時を大切にする態度をすることです。このように親も保育者も友達も兄弟姉妹が共に生きている時間を共有することで、生きている喜びを味あわせ、それが人の命というものですと説明し、自分も実感することを人生の中で時々持ちたいものです。 

園長  飯田和也

いじめにあっても逃げないで乗り切る力

 親としてわが子がいじめられていると気づいたとき、どのように対処していいか戸惑うことがあります。いじめを受けている子にとって親や友達や先生の対応によって「生きる力」になり、たった一言で「生きる望み」をなくしてしまう場合があります。いじめられているときに「もう死にたい、悲しい、つらい」というサインを見つけたとき「あなたならきっとがんばれる、がんばってね」といった安易な励ましは避けたいものです。死ぬほどがんばっている時、もうがんばれない、また「死にたい」といった甘えたい相手にサインが出ているときなど、「甘えたいときに励まされるほどやるせない」という心情も気をつけたいものです。生きる意欲をなくす言葉や態度には注意したいものです。

 「もうこれ以上がんばれない」というサインが出たとき「共に泣いてあげること、相手の苦しみを受け止めて共感すること」、さらには、言葉をかけるとき「あなたには得意な絵があるじゃない、歌、うまいといわれていたね、計算が速く友達もほめていたね、字がきれいといわれていたね、また、幼稚園や保育園のとき踊りが上手だと友達や先生に言われていたね、友達に優しい子と先生にいわれていたね」といった子どものいいところをひとつ伝えてあげたいものです。幼い時に先生や友達から受け入れられていた、認められていた、愛されていたことを思い出し自信を取り戻し、生きている喜びを味あわせることも大切と思います。いじめられているとき「愛情の反対と言われている無視されている感覚」がもっとも辛いはずです。そのような一人ぽっちという感覚を乗り越え、自分には生きる力があったという心情を思い出させることで「生きる力」を見つけてあげたいものです。

 親として「あなたはお父さんやお母さんにとっては、かけがえのない命の光のような存在だからね」といったことを言葉で伝えたり、抱きしめてあげたり、手をそっと握って母親の肌のぬくもりを伝えることも重要といえます。いじめられて辛いとき、自分のこと信じて泣いてくれる友達一人いたら、いじめられているとき自分のこと理解し、温かく見守ってくれる先生一人いたら、最後まで自分のことすべて受け入れてくれるお父さん一人いたら、生きている喜び、生きていたい意欲、愛されることで我慢する態度、受け入れられることで生きていようという心に結びつく場合もあります。

 いじめられているときに親として、いじめている相手やグループとの距離を置いて向き合うことも教えたいものです。がむしゃらにぶつかれという態度だけでなく、相手に対して挨拶はするがさらりと受け流す生き方もあるということを伝えることといえます。また、どうしようもないときには距離を置いて自分の得意なことに熱中してすごす時期も大切だということも必要になります。一人で良いから同じ考え、趣味を持っている友達を通して生きていくことも大切ということです。また、様々なことで「ねたむ」ことの強い相手が周囲にいる場合もあります。そのような相手からねたまれているときには、ねたんでいる相手に対して自慢をしない態度をして、付き合うということを教えることも重要になります。このようにいじめられているときに親として乗り切る生き方を伝えることが大切になります。

 また、いじめの問題は人生の中で乗り越えなければならないひとつといえますが、幼児期に人とのかかわり方について愛されることや人を愛すること、また、あるときは距離を置いて自分を見つめることも大切といった「人生の師」としての親でありたいものです。 

園長  飯田和也

人生の中で「ねたみ」との対応について

「ねたみは、育ち方によって強くなる人とそうでない人が見られる。自分が突っ張らないと生きていけない人、少しの不正を許すことができなく正義感の強い人、自由と平等とか差別撤廃を叫ぶ人などは妬みが強くなる。また反対に甘えられるところがある人はあまり妬まない」–「いじめと妬み・土居健郎、渡部昇一、PHP」より

この本のように愛されることが少ないと人をねたむ、受け入れられる生き方が少ないと人をねたむ、認められることが少ないと人をねたむ、甘えられる人がいないと人をねたむ生き方に結びつくことが多く、妬むことは生まれながらに持っているが環境によって影響されると思われます。

前述の本の中で「自分が妬むことが多いとか妬まれていると言うことを把握していれば、ある程度、相手と距離がとれる。「ああ、これは妬まれている」と思えば相手に対して用心する。また、自分のこと自慢しないように注意できる。自分が妬んでいれば、「これは恥ずかしいことだから、なるべく妬んでいる気持ちをださない」と思って努力することができます。特に、「今のような平等を社会の前提としている時代だから妬みに対して神経を使う必要がある」と言った箇所もありました。

この本のように大人になって自分を見つめることも大切となります。特に、子育てにおいて周囲の子どもの持っているもの、また、能力に対して妬むことが多い生き方をしている母親であると、その姿が子どもに映り、わが子も妬むことが強い生き方となります。「人は環境を通して発達する」という言葉にあるように母親や父親の人への態度が子どもにとってはモデルになっています。自分の生き方が「妬む」ことが多いということを意識することも大切となり、そのようなことを気づく生き方が大切となります。子どもがいじめたり、いじめられたりする一つに「妬み」の強い子による「いじめ」が問題となります。そこで、自分は「妬みによるいじめ」を本当は気づいているのだが素直、謙虚に受け止めることができない場合が問題です。母親が素直に気づいたならば、子どもの将来の生き方のためにも直そうという態度を子どもに示すことです。示すことで子どもは人を妬んだりすることなく母親に甘えてきます。その甘えが「可愛いなあ」「優しくなったなあ」と感じることで母親も子どもも人を愛する態度が変化してお互いが大きく成長する生き方に結びつきます。

一人でも自分のことを 「受け入れてくれる人、認めてくれる人、愛してくれる人、甘えることができる人」がいることで妬むことが少ないと言われていることを素直に受け止めて「時には甘えてもいいんだ」「失敗をしても自分のこと受け入れてくれる人がいるから幸せを味わう」さらには「生きる喜びを味わうことができる」ということを味わい、伝えることだと思います。自分ひとりだけでは生きていくことができません。最後は誰かに支えられなければならないことを理解すれば、時には「がんばって突っ張っている自分を解き放つ」ことで素直になり、その態度からわが子の幸せな生き方、困難に出会っても逃げないで乗り切る智恵をもち、自分から進んで工夫して対処する「生きる力」になります。

このように母親や父親の生き方を変えることで、他人の眼を気にしすぎないで自分を素直に出して生きていく力を身につけると思われます。誰でも持っている「ねたみ」に対して意識をして行動することです。周囲にいる人々に「妬んでいる自分が影響を与えている」ことを理解することです。自分自身をコントロールすることで周囲が幸せになり、この態度・生き方を素直に理解することが親子の幸せになる「チャンス」として受け止める生き方をしたいものです。 

園長  飯田和也

幼児教育は「生きる力」「生きる喜びと困難な状況への対処する力」を育てること。

 幼稚園教育要領は「生きる力」を重視し、保育所保育指針は「生きる喜びと困難な状況への対処する力」を育てることを重視しています。このように幼稚園でも保育園でも幼児教育の重要性が叫ばれています。それは将来、小学校・中学校・高等学校になって自分勝手な行動で人を殺したり、人に平気で迷惑をかける大きな事件が目立っています。また、このような生き方をしないため「自由の後に責任がある」という幼児教育を行うことです。親として幼稚園も保育園も地域を含めて「生きる力」を育てることです。しかし、自分の家族だけが幸せであればいいというのでなく地域を含めて子どもたちに「生きる力」を身につけさせたいものです。

  どのように「生きる力」を身につけさせるかは、自分は「今日一日、食べることができた」という生きている喜びを感謝し、そして、「もっと生きていたい意欲」を持たせることが重要といえます。さらに、生きている喜びを味併せるには、「自分から考えた、見つけた、気づいた、人に言われないでまねした、工夫した」という主体性を尊重する幼児教育を親が理解し家族でも見つけ、そこを受け入れたり、認めたり、共感することが重要になります。

 折り紙の場面で先生の折っているのをじっと見つめ、面白いと感じ、先生の折り方を真似し、先生のように上手に折れなくて、曲がっているが紙にアイロンを工夫してかけている子どもたちがいます。このような子どもたちに対して、折らせることにこだわっている今までの教育では「生きる喜び」を味併せることには結びつきません。

 先生は「はい、ここをもっと併せて、はい、ここをこうやって折るの、はい、もっとまっすぐにして」と言った上手に折らせることだけの言葉かけで終わっている実態です。しかし、「生きる喜び」を考えた先生やお母さんの言葉では「先生・お母さんのように真似できたね、工夫して指をいれて折ったね、持ち方面白い持ち方だね、先生と違って指二本でアイロンかけられたね、自分で考えて併せたね」といった子どもの折っている時の行為を「受け入れ、認め」そして「共感」することで、子どもたちは、先生やお母さんから「愛されている」と感じます。このような場面から「生きている喜び」に結びつき、先生やお母さん大好き、愛されていると折り紙しているときでも心の結びつきとなります。

 しかし、今までの教育は上手に折らせることに囚われ、できる子にとっては楽しい折り紙でした。折りたくないとき、気分が乗らないとき、難しくて折れないときの子がいます。このようなときの子どもでも自分なりに「面白いと感動する時、まねする時、できるところだけ折ってアイロンかけるとき」と言う「自分で〇〇する」主体性のときがあります。また、「一人ひとり違っていいとき」の発達の中で個人差の激しい時もあります。兄弟でも性格や能力の違いが見られ同じようには育つことはありません。

「できた・見て、こんな風に折れたよ、見て・見て」とサインを出している子の知的発達を先生やお母さんが見つけることで、この子の能力はこんなにもあると言うことを信じることです。子どもは先生やお母さんから信じられることで「生きている喜び」となり主体的な行動に結びつきます。このような知的発達の場を先生と親が見つけ、共感し子どもに気づかせるのが「生きている喜びを味わい、困難に出会っても乗り切る力」を身につけさせるのが幼時期の教育といえます。

園と家庭、そして地域の協力により「生きる力、生きている喜び」が育つような「教育」が日本中に広がることを願っています。 

園長  飯田和也

「せっかちな親からのろのろした子が育つ」

 この「言葉」は親や先生が子どもたちと触れ合うときに気をつけなければならない態度といえます。
朝の場面で「はやく、おきなさい」まだ寝ている「もう、早く起きなさい。何度いったら判るの」それでもなかなか起きてこない子。「はやく、ご飯たべなさい、もっとはやく食べなさい、みんな待っているよ」それでも食べない子「いつまで食べているの、もう、」と言って子どもの口の中にスプーンを持っていって食べさせると、子どもは口をあけてもぐもぐして食べる。「早く服着替えなさい」「いつまでテレビ見てぼーとしているの」それでも着替えない子。母親はさっさと腕を通して着せている。こういった状況を見ていると、子どもは次第に母親が言えば言うほどのろのろとした行動になっています。

 そののろのろした行為を見てさらに母親はカッとして激しい言葉になっています。また、自分はせっかちだからと把握していて我慢をしているつもりで、イライラしている顔つきは次第に表情が硬くなっています。「眼は心の窓」という場面で目つきが険しくなっています。これとまったく同じ場面が保育室にも見られます。せっかちな性格の先生が保育をしていると「待つ」保育ができていないために次々と進めている保育では、子どものテンポが合わない子はのろのろしてしまいます。すると次第に言葉かけがきつくなっている状態になります。

 子どもの能力を信じて欲しいものです。信じていれば「はやく・はやく」と言う言葉を何度も言う必要がないはずです。しかし、子どもの力を信じていないと、自分には待つ時間がないためにそれにあわせようと「はやくさせ」自分の時間に合わせようという態度でふれている場合もみられます。特に母親や先生の中で気をつけなければならないタイプといえます。

 子どもは親にいわれたことをしなければならないと判っているのに何度も言われると「わかっている」と言う言葉を発しています。本当にわかっているのです。「しなければならないこと」「今、することがいい」しかし、お母さんや先生は「ちっとも、自分のこと判っていない」「うるさいなあ」「そんなに言わなくてもいいのに」と言う気持ちにしています。このような態度が積もり積もって聞く耳を持たなくしています。いつもガミガミは子どもに対して利きません。

 このように常にしつっこくせっかちに小言を言う態度から子どもは聞く耳を持たなかったり、聴いているふりをします。さらには、自分から行動するということをしないで親に言われていることが楽になり、言われていることで安定している態度になっている場合もみられます。

 ある「せっかちな態度の母親」の言葉です。息子が高校生になって修学旅行でディズニーランドに行ったそうです。平日できっと楽しかっただろうと想像したそうです。親子で行くと日曜日は込んでいても、何度も並んで乗り物に乗って楽しい体験をしているから、きっと人が少なく喜んでいると信じていたそうです。帰ってきたとたん「つまらなかった」「だるい」「かったるい」という言葉をだしたそうです。母親はいつもすばしっこく、せっかちに走り回って先にと並んで場所をとって楽しませていたそうです。子どもにとっては自分から動かなくても、母親が先回りをしてお膳立てをして楽しかった。友達とのディズニーランドでは自分から動かなければならないという状況のために疲れ、緊張し、判断するのに困難であったということで「つまらなかった」という言葉になったようです。

 母親のせっかちな態度から自分の意思で判断し行動して楽しむという生き方ができなくなってしまっている状況といえます。せっかちな親からノロノロした態度が育ち、自分から楽しむことができなく与えられたことでしか行動できない生き方といえます。

 「生きる力」を育てるには子どもの能力を「信じ」温かく見守り、受け入れ、認めるという態度が必要といえます。 

園長  飯田和也

「保育は子どもを好きなだけでなく愛がないとできない」

 この言葉は親として子どもに「しつけ」をする時に参考になります。子どもが大好きで保育者になる先生がいます。しかし、手遊びや折り紙を上手に教えることができればいい教育と思い込んで触れ合っていると自信をなくすことになります。上手にできないときの子どもに出会うとなんとかうまく折り紙を折らせたり、大きな声で歌わせたり、全部残さないで食べさせたりと言った「させる」事にこだわります。しかし、明らかにできないとどうしようもない感覚になり、カッと怒ったり、言い過ぎることになります。そのようなときに子どもの反応は意欲をなくしたり、ふらふらしたり、無視したり、ふてくされたり反抗します。

 子どもがかわいい、大好きといった捉え方だけで保育ができない場面です。このような時、子どもへの「愛」がないと子どもはこころを開いてくれません。保育の中で子どもへの「愛」とは、「将来、困難に出会ったときにも自分で乗り切ってね。また、自分で考える力を付けてね。友達やものを大切にして生きていってね。あなたには能力があるから自信を持って生きてね。」といった願いをもち、見守ったり、抱きしめたり、受け入れ、認め、共感して触れ合うことが重要になります。ここで失敗してもいいよ、間違っていてもいいよ、できないときもあるからね、でも、次はきっとがんばってね、と言った気持ちも入っています。しかし、上手に歌うこと、踊ること、速く走ることなど技術が上手に出来ることがいい教育、しつけと言った触れ合いだけでは子どもにとって利益になりません。このように押し付けられたり、できることがいい教育という態度からは、できる子にとっては楽しい、しかし、できない子、どんなに努力してもできないときは劣等感になる場合になります。上手にさせるだけではなく、一人ひとりの能力にふさわしい働きをし、能力を高めるには子どもへの「愛」がないと通じません。子どもは上手にできなくても自分なりにじっとよく見ていたり、聴いたり、味わったり、匂いをかいだりしている場合もあります。また、自分から友達や先生、お母さんの真似をしている場合もあります。さらには、自分なりに工夫して紙を折ったり、絵を友達や先生の真似して描いたりしています。そのようなときに、大人の指示したように上手にできない場合があります。しかし、自分なりに集中し工夫し、我慢して描いたり、つくったり、歌ったり、踊ったりしています。この自分の意志で判断し行動している「認知能力」の高い場面を見つけてくれるお母さん、先生、友達がいることで「受け入れられている」「認められている」そして「愛されている」と感じることになります。

 子どもが好きだけ、可愛いだけと異なり「愛」がある触れ合いをみていると、将来の生き方まで影響を与えています。お母さんやお父さん、先生から「愛」のある触れ合いを受けることで、大人を信じたり、友達を信じたり、我慢する態度を養ったり、他人をねたまなくなったり、自分から行動する心ができます。この愛されることから人を愛する行為が出来ることで、人の話をきちんと聴くことができるようになります。

 保育者になる学生には、ただ好きだけで仕事をしてほしくないと伝えています。子ども一人ひとりを愛するためには、自分を愛し、子どもたちの将来を願い、一人ひとりの個人差を見つける力を持つことといえます。さらには、できたところをただ「上手」とか「可愛い」と言った言葉だけでなく「・・を工夫したね」「・・をまねできたね」といった具体的な箇所を見つけ、共感することで子どもは愛されていると感じます。親も先生も子どもへの「愛」を大切にした触れ合いができれば子供たちは幸せな人生を歩むと信じていいます。親として家族と「愛し合える場」を大切にしたいものです。

園長  飯田和也

「あなたは子どもをしつけるとき、最初に約束を伝えていますか」

 ある相談から教えられたこと、それは「先生、怒っても子どもたちは少しもいうことを聞いてくれないので、自信なくしています」という実習生の言葉がありました。そこで「貴女は、子どもたちに自分のクラスで行動する時の約束を始める前に言いましたか」「クラスで友達と遊ぶときのルールや自分の話を聴くときの約束ごとを 伝えてからはじめましたか」と言うとびっくりした様子で「なるほど」という場面になりました。

 遊ぶことや物を作るときの始める前に約束があることを子どもたちに話しているかどうか見直したいものです。この学生のように子どもに対して触れ合うことが初めてで子どものことを理解していないために、子どもが自分の思うように動いていないとつい「怒鳴ってしまう」「悲しくなってしまう」 「いやになってしまう」「判らなくなってしまい自信をなくしてしまう」という場面になります。しかし、始める前にルールを伝えれば注意したり、ほめたり、共感することができて子どもと信頼感ができてたのしくなります。しかし、この学生のように子どものほうは、約束事もいわれないために自分が好きなように動いていて、何故文句や注意を受けなければならないかと言う気持ちになっています。このような心情にならないように最初に約束があれば、護ろうという気持ちも出てくる場合があります。新しい遊び、はじめて道具を使うとき、新しい友達との触れ合い方など周囲にいるお母さんや先生、友達が丁寧に遊び方、使い方、触れ合い方を伝えていれば護ることで怪我をしないように遊んだり、自分勝手に行動しないで仲良く行動したり、他の子に迷惑かけないで遊ぶことができる場合も多くなるはずです。小さいときから家庭や社会の中「幼稚園や保育所、学校など」において周囲にいる大人が約束事を伝えたいものです。伝えてあればルールを破ったときに注意をすれば子どもは効果があります。 そこでただ注意をするだけでなくルールを護っている場面をとらえたいものです。ルールを護っているときに当然と言う見方でなく、しっかり守っていると受け入れてあげる態度、道具の使い方もできているときに共感をして認める行為をしてほめてあげることで、さらに子どもはルールを護ろうという態度が養われると信じています。

 しかし、この学生のように子どもに約束をしていないで、自分の都合や尺度で怒るというだけの行動では子どもはついてきません。社会には社会のルールがあります、学校には学校の校則があります。家庭には各家庭の約束があります。自分の家での約束事として「使ったものは元にもどす」「挨拶をきちんという」「ありがとうをいう」など様々あるはずです。社会で子どもたちが自分勝手な行動をして他人に迷惑をかけて平気でいる場面がみられます。また、自由の後に責任があるという言葉を理解しないで責任の取り方を教えていない場合も見られます。 

園長  飯田和也

「子どもを授かった喜びを味わっていますか」

 子どもの行動を見るたびごとに「泣いてばかりいる」「食事が進まない」「トイレがうまくいかない」「喧嘩ばかりしている」「言葉の使い方が駄目」といった気になる行動ばかりを意識しすぎているお母さんが時々います。

 また、自分にゆとりがないと子どもの欠点ばかりをとらえる場合もみられます。自分が生きていくうえに人間関係でうまくいかないとき、隣近所の人との付き合いがむずかしいとき、お金が自由にならないとき、身体が丈夫でないとき、時間にゆとりがないなど辛いことばかりを意識しすぎていると子どもに眼が向かない場合もあります。子どもに眼が向かないと子どもから「生きる喜び」を味わうことになりません。親になったことの喜びは、わが子をはじめて抱いたときに「生まれてくれてありがとう。出会えてよかった、匂いを嗅ぐだけで嬉しい、見ているだけで感動する」出会いだと思います。そして「子どもから自分の生き方をみなおし、 生きる喜びともっと生きていたいという意欲」を与えられます。生きている中で辛いときほど子どもから乗り切る力を教えられ、人生の楽しみを味わうことになります。「様々な困難に出会ったとき」子どもが「お母さん」と抱きついてきたとき「抱きしめる喜び」を与えられ辛いことを一時忘れほっとするのではないでしようか。

 親として「自我能力」=「困難に出会っても逃げないで乗り切る力」を子育てから与えられていることを確認している親ほど力強い生き方になります。子どもを授かった喜びを意識して持つことが生きていくうえで大切になるのではないでしょうか。子どもの動きを見て、半年前を思い出すことで「あの泣いていた子が今は泣いていない」「片付けもできなかったのに今は元に戻すことができる」「友達と遊ぶことで汚い言葉を使うようになった」「トイレのスリッパをそろえることができるようになった」「ありがとうが言えるようになった」 といった子どもの発達を見つけることで大きくなったと喜ぶことができるはずです。 しかし、ゆとりがないと子どもの成長や発達を見る眼ができませんが、じっくりと子どものために腰を落ち着けて時間を割いて発達したところを 見つけるときが欲しいものです。一週間に一度でいいから取りたいものです。そのとき、半年前に比べると〇〇ができるようになっていると判断し、成長して嬉しいという思いで子どもを見つめるときを持ちたいものです。すると相手は「受け入れてくれるお母さん。 見つめていてくれるお母さん・お父さん」 という気持ちになり、自分は愛されているという感覚になります。すると子どもは親に愛され、認め、受け入れられているという気持ちになり、子どもも心をひらきます。 心を開くことで言葉や甘え方も変わり「お母さん、みて」と甘え上手になり、 そこで「こんなに大きく育ち、言葉も伸び、可愛い」という感覚になり子どもを授かってよかったという感覚になります。この子どもを授かった喜びを味わう生き方ができる親は幸いといえます。子どもがいるから嬉しい、そしてもっとがんばりたいという生きている喜びと生きていたいという意欲を味わうことになります。このような経験から親として子どもと共に困難に出会っても乗り切る力を与えられます。

 子どもの成長・発達を見つける眼を持たない親は「相手を受け入れる生き方」ができなく否定的な態度の強い生き方をしているのではないでしょうか。汚れないときの子どもの素直な心、親を信じ、愛されているときに甘えてくる可愛さ、気がついたら膝の中に入ってくる子どもの態度、そして、少しずつ成長している姿を見つけ、子どもを授かった喜び、さらに自分も成長することを気づく生き方を大切にしたいものです。 

園長  飯田和也

「生きる力を育てる」

 子どもは「生きている喜び」を味わうことで「生きていたい」という意欲を持つことになります。生きている喜びを親は子どもに味合わせているか見直したいものです。子どもがじっと蟻の動きを面白いと感じて観察している時、友達の描いている絵を素敵と思い真似した時、花がきれいに咲いているのを見つけて「きれいね」と親の前で言った時、また、自分なりに工夫して折り紙を折った時、親はどのような態度をしているか考えたいものです。「一人で遊んでいるからいい、真似なんかしては駄目、花がきれいなの当たり前、もっと上手に折れないの」といった無視・無関心・過干渉・期待過剰な態度で触れ合っていたら子どもは「自分でOOする」という主体性を身につけることはできません。

 発達とは、「自我能力」=困難に出会っても逃げないで自分で乗り切る力を身につけること、また、「認知能力」=自分で○○する・ 自分の意思で判断して生きていくこととも言われています。人は生きていくためには受け入れられたり、認められたり、共感されることで「生きている喜び」そして「生きていたい」という意欲に結びつきます。現代は「生きていたい」「何かしたい」という気持ちが少ない青少年が多いといわれています。わが子が生きる力を十分持っているか見直したいものです。上に上げた例は見なさい、真似しなさい、工夫しなさいといわなくても自分から全て行動している知的発達の高い場面となっています。このような場合「蟻の動き面白いね。」「友達の描いたのよく見ていたね、真似できてよかったね。」「花がきれいに咲いてるの見つけたね。とってもきれいだね」「友達と違って面白い折り方できて素敵だね」といった子どもの行為に対して共感することで子どもたちは変わります。無視されていたのが「受け入れ・認め・共感してくれる」という触れ合いから子どもは温かく感じることになります。大人から温かい触れ合いを通じて生きている喜びを味わうことになります。このためには「あなたのためにじっくりと腰を落ちつけてみていますよ。聴いていますよ。見守っていますよ」という態度を周囲にいる大人は要求されます。子どもは自分のこと愛して、一緒に泣いて、悔しがって、信じてくれる人が一人いることで生きている喜びをもち、自ら命を絶つこともないと思います。

 この四月という時期、進学・進級して新しい環境に出会った時に「生きる力」を与えてあげられる人になっていたいものです。自分のクラスの先生や友達は自分にとって優しい態度をしてくれるか、また、友達になってくれるのだろうかという緊張と不安、そして期待の入り混じった時です。このような気持ちのときに優しい笑顔を見せてくれる先生一人いたら安心します。また、やさしく判る言葉かけをしてくれるともっと安心します。泣いているときに「ここで泣いていいよ」という態度で自分を受け入れ、少しでも挨拶できたね、くつも自分ではけたね、食事も少し食べたね、おかずのにおいをかぐだけでいいよと、共感してくれる言葉が与えられることで自分から進んで遊んだり、話したり、食べたり、あそびたくなります。新しい環境に対して積極的にかかわることが出来なく見ていることを受け入れる時といえます。

自分のこと信じて愛してくれるお母さんが一人いたら、
自分のこと信じて見守ってくれるお父さんが一人いたら、
自分のこと信じて共に泣いてくれる友達が一人いたら、
自分のこと信じて出来ないとき慰め、励ましてくれる先生が一人いたら生きていたい、積極的に遊びたいという意欲に結びつくと思います。 

園長  飯田和也

「友達見つけるまでお母さん心配しすぎないで」

 四月になると幼稚園や保育園、小学校、中学校では新しい友達との交わりがあります。親は、友達を作ることができないで一人だけポツンと寂しく過ごしているのではないかと心配する場合があります。幼児、児童でも新しいクラスになる時どのように友達と話したらいいか、優しい子がいるか、意地悪する子はいるかな、どんな先生かなといった不安なこともあります。また、どんな幼稚園・保育園・学校だろうと心配になるのが当然です。このような子どもが情緒の不安定なときに、母親から「がんばって友達をいっぱいつくりなさい」「意地悪されたら、負けないでいじめ返しなさい」「泣かないでがんばって遊びなさい」「はやくなんでもできるようにしなさい」といった言葉をいつも言われていたらどのようになるでしょうか。友達関係で誰とでも積極的に入っていける子にとっては平気な場面となります。しかし、多くの子どもにとっては「不安・心配」なときが、始めての友達や教室、庭、遊具、道具との出会いとなります。

 このような子どもの心の動きがあるときに「がんばって友達作って」という励ましをするお母さんや先生がいます。特に「友達たくさん作ってがんばって」と言われることで萎縮することになる場合もあります。自分は必死でクラスの中に入り、友達を作らなければならないとがんばっているがクラスの雰囲気が怖い、先生が判らない、友達を理解できないのに毎日、「がんばってね」と励まされるだけでどうしていいかわからない、どうやって友達作るのか判らないという気持ちのときもあります。

 このような子どもの心のときに、「最初は、友達をみているだけでいいよ、声を聞いているだけでいいよ、匂いをかぐだけでいいのだよ」と言った言葉かけが大切になります。子どもにとっては「どのようなクラスの雰囲気で友達は何しているか。うるさい子は、乱暴な子は、静かな子は、優しそうな子は、かわいい子はいるかな」と観察しています。「友達を見つけて仲良くしなさい」と誰かに言われないでも自分にとって「肌が合う子」「うまが合う子」を見ています。最初の日に見つける子もいます。なかなか見つからないで一週間かかる子もいます。半月かかる子もいます。一ヶ月・二ヶ月時間がかかることもあります。

 この観察しているときにちょっかいを出してくる男の子・女の子がいます。相手は「気になるアイツ」として感じ、周囲の子に対して積極的な行動をする子がいて意地悪ではないがかかわってくる子もいます。

 最初から友達をたくさん作って遊べる子もいますが、そうでない子には、「共に泣いてくれる子、喜んでくれる子一人でいいよ」という言葉をかけてあげることも大切となります。観察しているときであると信じて、親という漢字のように高い木の上から背中を向けないで見守るという時期と言えます。そのようなときにクラスの先生が同じように「共に泣いてくれる友達一人でいい、また、今はできなくても先生が間にはいっていてあげるからいい」といった触れ合いが必要なときと言えます。そのようなときに自分のことをほめてくれる友達や先生がいれば周囲から認められる、愛されると言った感覚になり「自分の意思で判断する」という自発性を気づき自分から少しずつかかわる力が沸いてきます。

 自分からかかわりたくなる雰囲気を 親や先生が作ることが大切な時期といえます。 親の我慢と子どもの能力を信じて見守ることになります。どんな新しい環境になっても母親が子どもの「困難に出合っても自分で乗り切る力」を持っていると信じてあげることが重要になります。親から信じられていることで子どもは自分を信じ、いやなことやいじわるする友達に出会っても自分で乗り切る力をもつことになります。「共に泣いてあげ、良い箇所 をひとつ伝えられる母親でいたいものです」 

園長  飯田和也

「共感すること」

お母さん(先生)、子どもの内面を見て共感していますか。

 子どもが「・・ができた、できない」という場面だけを見て評価すると偏った視点になります。目につきやすい箇所だけを親や教師が子どもを捉えていたら子どもは大変不幸となります。それは描いたり・作ったりする技術はまだ完成していない時の子どもにとって、多くのことができる他の子と比較されたら劣等感をもってしまう場合になります。

子どもがお母さんの顔が形になってかけるようになったから大きくなった・成長したという「できた、できない」という理解だけで子どもの発達を見ていませんか。「もっとお母さんそっくりに形もわかるようにかけないかな」と上手に描けることだけを発達していると捉えて見ていませんか。大人にとって子どもを理解するときに表面だけを見るのでは本当に把握したということにはなりません。子どもがお母さんの顔をじっくりと観察し眼や唇、鼻の形や肌の色を同じように描けるようになった、それも他人から言われないで、自分から顔を描けるようになったこと、工夫して自分なりに描けるようになったという子どもの心に寄り添い、子どもの気持ちになろうとすることで共感的に理解しようとすることが内面を推理することになります。

共感とは「他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを自分もまったく同じように感じたり理解したりすること」引用:広辞苑/岩波書店

 このように子どもの表面的な態度をとらえるだけでなく子どもの内面を理解しようとすることが最も相手を「受け入れ、愛する」には大切となります。子どもは自分の内面を理解されることで「受け入れられている、みとめられている、愛されている」といった感覚になり生きている喜びを味わい「生きていたい」という意欲になります。共感するには、相手の心に寄り添うことが大切になります。相手が「今」どのようなことに興味・関心をもって行動しているか、楽しんでいるか等わかろうとする気持ちを持つことと言えます。早く上手に何でもできるようにさせたり、食べさせたり、作らせたりといった押し付けるしつけや教育をすることは共感することとはいえません。子どものテンポに合わせようという気持ちがなければ共感になりません。子どものテンポは一人ひとりが全部ちがっているのを配慮することです。アンダンテという音楽の標語があります。「程よくゆっくり歩く速さ」という言葉ですが、自分の「アンダンテ」は腕の長さによります。人の腕の長さは全て異なっていることで、歩く速さは違うことになります。個人差を理解したいものです。

「今日、貴方は子ども対して何回、共感しましたか」と問われたとき、ほとんど共感することなく見ている自分、やらせることに捉われていた触れ合いを見直すことも重要になります。毎日の中で「はやくしなさい」「早く・早く」と押し付けが多いということを反省することも大切と言えるのではないでしようか。一日を振り返ったとき一回でもじっくりと子どもが何に対して興味・関心を持って遊んでいるかを見ていたかを見直すことも大切と言えます。幼稚園・保育園・小学生になっても共感してくれるお母さんやお父さん、先生との出会いがあることで自分は「ほっと」することになるのではないでしようか。自分のことわかってくれる人が一人でもいることで「つらいとき、かなしいとき、嬉しいとき」話す相手がいることで安心して相談することや報告することで生きている喜びを味わうことになります。家庭や園で生活する中で共感してくれる人、一人いることが生きる力になると信じています。親子で共感すること、兄弟姉妹でお互いが受け入れ、共感すること、教え子と共感することで心の交流ができることが生きていく上で大切になります。 

園長  飯田和也

「真似るは学ぶ、学ぶは創造力」

「真似ることができてよかったね、真似ることから始まるよ、お母さん・・ちゃんの力信じるからね」とわが子に伝えていますか。子どもの能力を見つける眼とそれを理解し、自分なりに工夫して生きる力を伸ばす触れ合いをしたいものです。

 子どもたちの行動を見ていると、様々なところで今までと違った言動をしていることを気づくことがあります。どこでおぼえてきたのかなと思うと友達がアニメのキャラクターが好きであると同じものを身につけたくなり、保育者の言葉や行動を真似していることが理解できます。

 家庭で「幼稚園・保育園ごっこ」といって「朝の挨拶をします、皆さん立ってください。」「・・チャン、上手だよ」「はさみはこうやってもつのだよ」といって安全な持ち方を家でも教えてくれます。家に帰ってきて、その日のことを家族に示すとき、「ママ、紙ください。一枚だけです。はさみ貸してください。」と言って園でいつも言われていることを真似します。そして、折り紙をきれいに三角に切り、重ね合わせてクリスマスのツリーを紙袋に貼ってその日のことを思い出し、真似して造っている場面をみることがあります。

 先生が大好きであれば、折り紙の折り方を保育者のとおりに真似して折り、そして丁寧に切っています。先生がのりを使っている場面、また友達が切っているとおりに思い出して真似している場面にもなります。自分の座っていたテーブルで友達がはさみやのりの使い方が「おもしろい・いいなあ」と思えば真似して家庭でもしている場面となります。大切なことは家庭などで再現するときに先生や友達との言動を真似して行っているときを親として「受け入れる」ことです。

 「人の真似して駄目」といった考えだけでなく、真似する力が創造力になると信じてください。真似しているとき真似した相手とまったく一緒にならない場合があり、そこで「自分なりに工夫する」ことが出てきます。つまり、「創造力」が要求されます。昔の教育は人の真似して駄目といったことが強かった気がします。真似しなさいといわれなくて自分から真似をしたとき、自分の意思で判断してそこからが「第一歩」という場合もあります。簡単に自分で作り出すことができない場合、イメージがわかない場合に「先生がこんなことしていた」「友達がおもしろく描いていた・造っていた」といったことを想いだして作り出す場合もあります。このような時に大切なのは「真似したくなる相手」が周囲にいるかということです。先生のようになりたい、お母さんのようにしたい、おとうさんのように強くなりたい、友達の・・チャンみたいにしたいといった人間関係が重要な要素となります。

 親として真似したくなる相手になっているかどうか見直したいものです。子どもを受け入れていなければ真似してくれません。いつも文句ばかり言っていればそばにいません。また、小言ばかり言っていれば小言ばかり言う子どもになっています。叩いてしつけをしていれば相手を叩いていうことを効かせようと真似します。片付けていない生き方をしていれば片付けなくてだらだらしている姿を真似しています。親の姿を見て育つのが子どもです。また保育室の保育者の姿を見て育つのも子どもです。

 様々な場面で真似している子どもたちがいることを理解したいものです。そして、真似る力があれば将来、社会の中で自分なりに発達し、自分でしか咲かせられない人生の花を咲かせていくことを信じて見守っていたいものです。大人は子どもに真似されていることを時々再認識し「いいところを真似してね」といった触れ合いをしたいものです。 

園長  飯田和也

「子どもから教えられていますか」

 親として子どもには様々なことを与えること、また、教えることが当然であり、子どもから教えられることは何もないという感覚になっている場合はありませんか。しかし、よく考えてみると親になって初めて気づくことのほうが多いのが、子どもを授かり家族になったことの中にたくさんあります。食事が与えられているのが当たり前、家があるのが当然といった考えから、子どものためにしてあげていることで、親のありがたさを教えられることが多くあります。

 親は子どもに元気でいきていくこと、他人に迷惑をかけないで正直に生きて欲しい、心の優しい人になってといったことなど様々な生き方を伝えて、育てることを大切にしていたかもしれません。しかし、子どもが幼いと忙しすぎてなかなか子どもの立場になることができない場合もあります。親として子どもの行為がかわいいと思えて気づくこともあります。自分中心であった自分自身も子どもを授かったことで子孫が残ったという感覚から、子どもがかわいくて仕方ないという態度でほっぺにチューをしたり、抱いたりする行為になります。また、親の願いだったことも親になって気づきます。親が自分に何を残したいのか親になって改めて理解できる場合となります。

 しかし、自分が親になり親として当然しなければならないことを一生懸命考えすぎ、実施しようとすると客観的に見えない場合になります。子どもを良くしようとして怒るときを思い出してみてください。カッとなり、般若の面のごとくに怒ることだけで子どもには通じていません。母親の怖い顔のみ印象的となり何を怒られたかまったく把握していないのが、子どもという場合もみられます。

しかし、大人が注意するのでなく回りにいる子どもが注意をすると、子どもは納得して注意の仕方を教えられる場面になる場合もあります。仲の良い兄弟姉妹がいて上の子が下の弟や妹に対して注意をしている場面を見ていて教えられることがあるはずです。ひらがなが読めなくても兄や姉はゆっくりと教えています。縄跳びが跳べなくても「前に出してちょんとやればいいよ」と具体的に自分が教わったやり方で弟に通じるように教えています。跳び箱が跳べないと「手の付き方はこうするといいよ」とモデルになって示しています。下の弟や妹に対して丁寧に時間をかけてゆったりと教えている場面になります。親ならすぐ怒鳴ってしまう場面でも、怒っている姿は兄や姉も強い口調であるが弟に理解しやすいように教えています。「大きくなったら自分が困るからな、今、がんばるときだ」と言ったことを自分の体験から伝えています

 親はこのように困ったことがあったはずですが忘れています。しかし、兄弟・姉妹は年齢が近いためにはっきりとつらいことを把握してそれを乗り切る力をつけてくれます。このような兄弟に育てることも大切ですが、年齢が近いことで共感することが安易と言えます。親はなかなか共感することが困難ですが、少しでも親として子どもの立場になって共感して「生き方」を伝えたいものです。子どもがかわいいと感じることで子どもの姿から自分は親になれてよかった、子どもと共に成長を感じる場面を与えられて子どもを授かってよかったという感覚になり子どもから改めて自分の生き方を教えられる場面にもなります。

子どもが大きく成長したことで自分も親として子どもから学ぶこと、小さかったときの自分を思い出してこんなにも自分も成長・発達したことを子どもから教えられることになります。しかし、忙しいという感覚で走り回るだけの生活、また人任せの生き方だけでは子どもから学ぶことにはなりません。時にはじっくりと子どもが何に興味・関心をもって生活しているか、そして、今自分は父親や母親として子どもの何を大切にしていかなければならないかということを認識することといえます
子どもと共に育ちたいものですね。

園長  飯田和也

「ケチをつける人は劣等感がある人・・」

 大人になってある程度、地位も名誉も財産もあるのに人に対して「ケチ」をつける人がいます。世の中に劣等感を持っていない人はいませんが、劣等感を自分なりに出しすぎないような生き方がしたいものです。大人になって、相手に対して「ケチ」をつけないと生きていけないような態度をとる人に出会うことがあります。他人より社会的な体験が乏しく、能力も偏り、知識も技術も少なく劣等感があると人に対してケチをつけて相手を引き下げようという心が働くこともあります。このように人に対してケチばかりつける人は育った環境や育てられ方など生き方に問題がある場合が見られます。

 自分より少し目立って他人からチヤホヤされている、お金をもっている、美貌である、能力があるという相手に対して悪いところや弱い箇所を探り、ケチをつけて引き下げようと言う心が起こる場合があります。心の中だけにしまっていれば問題は少ないが、周囲の人に対して話したり、また、相手に平気な態度に出すことをする人がいます。このような人は自分なりに劣等感を克服する生き方を身につけていないことです。家庭の中で親から否定されて育ったり、文句ばかり言われて「いい箇所 」を見つけてもらえなく育てられた環境もみられます。

このような人からは「生きる力」を与えられることがありません。人をほめることの下手な人、共感する心のない人の周囲にいる子どもたちは「生きる力」を味わうことが少なくなります。子どもたちに生きている喜びを与えることのできる人は劣等感を持っていても自分で解決し、おおらかに生きる態度を持っていると言えます。自分よりも能力の低い人や力の弱い子どもには威張ります。相手の肩書きによってはまったく異なり低姿勢の態度をとる人となります。このような人のそばで育った子どもは表面はニコニコとしていても裏ではまったく異なった態度を示したり、自分より弱い者には横柄な態度をし威張るという行動をする場合も見られます。

 このように劣等感を持って子育てをしないような生き方が求められます。劣等感を克服するには「誰でも劣等感を持って生きている」ということを認識して生きていくことが大切とも言われています。自分自身をありのままに受け入れることです。できないことは仕方ない、やれないこともある、今はうまくいかないときといった開き直ることも大切といえます。困難に出会ったときに無理にがんばろうという態度をとることや、自分の弱さを隠そうとすることで返って相手に対していやな感覚にさせています。親として子どもに対しても完全に何とかやり遂げさせないと気がすまない生き方や失敗を恐れさせて育てるのでなく、失敗するときもあるよとおおらかな生き方をさせることも大切と言えます。

欠点ばかりを直そうと言う育て方だけでなく、長所 を見つけて伸ばそうというしつけが大切ですが、自分自身が高すぎる目標を設定するのでなくできそうな目標を設定し、一歩一歩前向きに生きていこうという生き方にきりかえる決断が求められます。自分自身を受け入れることで相手の生き方もおおらかに見つめ、受け入れることになります。このような態度をすることができて周囲にいる子どもも大人も一緒に生きていきたいという楽しい心情になります。人にケチばかり言って相手をいやなひと時にする生き方から共に喜び合い、心の交流ができ、困難を乗り切る力をお互いが持ち合う関係ができる「出会い」にしたいものです。

 本当に子どもを愛している人なら子どもや他人を「けなす」ことは控えたいものですね。 

園長  飯田和也

「お父さん・お母さん(先生と呼ばれる人)聞き上手になっていますか」

 大人や子どもと触れ合うとき、相手の立場になった態度をとっていますか。子どもに対して「してはならない」態度をとっていませんか。相手の話を聞くときにいやな態度・怖い態度をして相手を萎縮させていませんか。

 怖い態度のために相手は子どもでも大人でもしゃべろうという意欲を奪っている自分の行為を反省することも大切となります。自分で意識しないうちに、相手が話すことに対して劣等感をもつような生き方にさせている場合もあります。子どもや大人にたいして話すときの態度として次のような視点で反省したい物です。

1 子どもの話だから「程度が低い」また大人でも経験が少ない新人に対してとる態度があります。子ども(新人)だから仕事の内容はたいしてできない、分かっていないので程度が低いと決めつけて最初から聴こうとしない態度をとっていると子どもでも新人でもその人に対して話したいという意欲に結びつかなくなります。しゃべりたい心をなくす触れ合いのひとつともいえます。

2 子どもでも大人でも何度も同じことを相手から伝えられたり、さらには、同じ質問を繰り返し聴こうとする態度があると、聞いている相手は最後には我慢ができなくなり「うるさい・しつっこい」という気持ちになります。しかし、親だから、先生だから怒れないだけで本当は怒りたいという欲求不満の状態で、必死に怒りを抑えてがまんしています。そこではしゃべりたくない、一緒にいたくないという心情に結びつきます。

3 子供が「お母さん○○だよ」というと「そうではないでしょう△△でしょう」また、仕事場においても新人が「○○でないでしょうか」というと「そうでなく△△です」と自分のデータだけを使い子供や新人・後輩が説明する時間を与えないですぐと結論に結びつけるお母さんやベテランの指導する役目の先生や上司がいます。このような態度を常に与えられていると、子供や新人・後輩は人前で話すことに自信を失って黙ってしまうことが多くなり、オドオドとした態度になる場合も考えられます。

4 子どもは自分と同じ考え、教え子はまったく同じ気持ちだろうと思い込んでしまうと、自分と同じように考えているから聴く必要がないという態度になるお母さんや先生がいます。このような聴く態度ができていないと、子どもも教えられる方も自分から話す意欲になりません。

5 相手の気持ちを受け入れようとしないで、自分は何でも知っている、優れていることを示さなければならないと思っていると聴く態度が育っていません。自分は子どもや後輩より偉いという意識が強い場合には注意しなければなりません。

 以上のような聴く態度ができていない場合には「貴方のために腰を落ち着けてじっくりと時間を割いて聴こうとしていますよ」という気持ちを持って触れ合うことで相手も心を開いて話したくなります。また相手を「受け入れる」気持ちで接すること、さらに謙虚さを持つことで相手も一緒にいて話したい心になります。

 このように話す相手が自分自身を受け入れている、また、愛してくれるという態度がにじみ出ている場合には心を開く気持ちになり、自分から話したいという意欲に結びつきます。  このように聴く態度を見直すことで相手との「心の交流」ができるようになります。心の交流を通して共感することができ、この人と出会ってよかったという触れ合いになり話が弾みます。 

園長  飯田和也

「ありがとう」

 今日、貴方は「ありがとう」を何回いいましたか。今日一日を振り返ったとき、自分の周囲にいる人々に対して「ありがとう」という言葉を使いましたか。自分に対して「ありがとう」と言われて、それが当たり前と言う態度で相手に触れ合っていませんか。感謝されても何とも思わない態度で相手と接していませんか。また、自分が感謝する態度が少ないと周囲にいる人も影響を受けて感謝する態度が少なくなっている事に気がつかない場合となります。

 親なら自分の子供に「ありがとう」教師なら教え子に「ありがとう」という言葉を伝えていますか。自分より目下だから「ありがとう」という言葉を言う必要ないという態度で触れ合っていると子供も教え子も「ありがとう」という言葉を使うことが少なくなっている場合があります。「人は環境を通して発達する」という言葉があるようにありがとうと言う言葉を多く発する人の周囲には「ありがとう」という言葉が飛び交っています。住んでいる社会の中でモデルとなる人の態度によって、摸倣する相手の行動で発達が異なるということになります。

 大人になって「ありがとう」という感謝の言葉が少ない人を時々見かけます。ありがとうとなかなか言えない態度の大人から育った子供の行動には「ありがとう」という言葉がやはり少ない場合になります。子供にとっては、見近にいる大人が行動のモデルとなります。子供たちの前にいる親・幼稚園や保育園、学校の先生が「ありがとう」という言葉を発しているか見直さなければなりません。

 「・・ちゃん、・・もっていってね」と言って用事を頼み、もっていった後、戻ってきたとき「・・もっていってありがとう」と伝えていますか。トイレのスリッパをそろえている姿をみて「・・くん、スリッパそろえてくれてありがとう」と言っていますか。外遊びのおもちゃを一人で黙々と片付けている姿、友達が困っているとき手伝っている姿を見たとき、当たり前という態度で言葉をまったくかけていない触れ合いをしていませんか。「ありがとう」という感謝される言葉を周囲にいる大人から受ける事によって、子供が自分は「受け入れられている」「認められている」といった感覚になります。
 ありがとうと言われる事で感謝される事から気持ちよくなり、心が弾み自発的な結びつく場合となります。このような自分の気持ちを大切にされる体験から、相手の心を疵気づいて行動する事が必要となります。

 身近にいる相手に対して見直したいものです。親子で「ありがとう」幼稚園や保育園で保育者からありがとう、学校で先生からありがとう、友達同士でありがとうという事が気持ちよく言い合える社会にしたいものです。言い合えるには、相手の行為を受け止め、自分一人では生きていけないという生き方を気づきたいものです。特に親や教師が積極的に「ありがとう」という態度を示すことを子供たちにしたいものです。

 相手を認めるという態度を示す事で人を大切にする態度に結びつき、自分たちは生きている喜びを与えられます。生きている喜びを家庭や幼稚園、社会から与えられることで人を大事にする行動に結びつきます。今日一日を振り返ったとき、様々な場面で「ありがとう」と言う言葉を発しなければならないときがあったと思います。特に子供に対していえなかった事を反省し、子供たちが生きる力を育つ場を見失わないように「受け入れたいものです」夫婦でも、家族でも「ありがとう」という言葉を通して、伝えた後の心の穏やかさを味わい、心の交流の大切さを忘れないで過ごしたいものです。

園長  飯田和也

「○○ちゃん上手だよ」

 給食の時間で当番がテーブルをきれいにし配膳し終えて、前に一列に並んで「みんな眼を閉じて座ってください。」といった言葉をかけるとクラスの子どもたちはピーンと背筋を伸ばして眼を閉じるのでした。中にはちらっと眼を開けて周囲を見たり、足をもぞもぞとするこが見られました。すると、このような眼を薄目を開いている子や足をもぞもぞしている子を注意するのではなく、当番の子どもたち四・五人が次々と「○○ちゃん上手だよ」「○○君上手だよ」と声をかけていく場面となっていきました。
 さらに観察すると、声をかける子どももかけられる方も、男だけとか目立つ子だけといった偏らない場面となっていきました。「みんな上手だよ、眼を開けてください。手を併せてください。さん、はい、いただきます」というと全員がそろって「いただきます」と言って給食を食べ始める場面になっていくのでした。

 今までの教育の中で悪い箇所を見つけて直そうということに囚われているとこのように“子どもが子どもをほめる”という場面はみつけることが少ないのではないでしょうか。確かに問題なことを見つけて正すことも教育になります。しかし、いつも悪い箇所ばかりを指摘されすぎて、嫌な思いになっている子どもたちも多かったのではないでしょうか。自分のいい箇所を先生からではなく友達から伝えられたらどんなに嬉しいか、一生の宝物といえます。

 このように当番活動といわれるのが幼稚園や保育園、学校や施設で行われていますが先生の叱る事や注意することの代わりではないはずです。注意ばかりする当番の嫌な、辛い立場を先生は本当に理解していません。子どもと子どものかかわりを壊すような教育は見直し、子どもだからできる教育を作り出したいものです。このような教育が出来るためには、周囲にいる大人がほめる姿を乳幼児に示して“ほめ上手なモデル”をなることが重要になります。ほめるには、相手を受け入れることがなくてはほめることにはなりません。また、よく観察していないと”どこがいいかほめる態度”には結びつきません。「わあ、上手」「すごい、すごい」「わあ、かわいい」といった言葉だけでは子どもたちは「どこが」「どうして」「なぜ」といった気持ちになります。

 よく観察しないと相手には通じない場合があります。子どもたちが受け入れられ、自分はよく見られているという感覚になるのが、食事の前に「○○ちゃん、上手だよ」といわれて一緒にいたい、食べたい、かかわりたいという雰囲気になります。しかし、悪い箇所ばかりを指摘されていては、一緒に食べたいという意欲にはなりません。かかわりたいという心を気づかせることで生きている喜び、生きていたいという意欲になります。自分のことを受け入れて、じっと見ていてくれる友達はほめてくれます。悪い箇所はチラッと見るだけでわかり、問題点ばかりを指摘する生き方をしている大人や子どもたちのそばには、子どもたちは寄っていきません。この乳幼児期に自分のことを愛してくれる友達がいたという暖かいぬくもりを食事の始まる前の場面から見直したいものです。

 遊んでいるとき、スポーツをしているとき、ゲームをしているとき、絵を描いているときなど、「真似できて良かったね、絵がかけるようになってすごいね。すこしでも牛乳飲めるようなっていいね。ご飯たべられるようになってすごいね。うまくなってよかったね」と子どもをほめる触れ合いができるように周囲にいる保育者や教師、保護者は配慮したいものです。
 幼稚園や保育所、学校で子どもが子どもをほめる場面が増える教育を願いたいものです。 

園長  飯田和也

ホームページリニューアル

誠和幼稚園ホームページをリニューアルしました。

リアルタイムな情報を掲載していきますので宜しくお願いいたします。

しつけのよい子とは

 現在社会の中で若者の行動をみていると「しつけ」ができているかどうか、また「しつけ」ができていないのではないかという疑問が出てくるような場面に出会います。電車の中にて大声で騒いでいる女子学生、走り回っている子どもたち、水道の水を出しっぱなしにして止めることもしない小学生などさまざまな場面に出会います。 「しつけ」のよい子とは一体どのような子どもをいうのか考えさせられます。「しつけのよい子」とは、基本的には社会の中で行動するときに、自分勝手な行動をしないで忍耐をもって、周囲にいる人の立場を理解して行動すること、また社会に適応する力をもち、生きる喜びを身につけたことも大切といえます。具体的には、

1)さまざまな環境に適応できる体力が育っていること。
2)適度の苦労に対して乗り越えてきていること。
3)困難を乗り越える知識と技術が身について生きる喜びをもっていること。

このようなことが、友達とのふれあいや人との中でできていてしつけのよい子として見られます。

 歳をとってから行動を変えることは難しいけれど乳児期に「しつけのよい子」といわれるように育てたいものです。第一にさまざまな環境に我慢できるような生き方を身につけたいものですが、周囲にいる大人に我慢が要求されます。暑い時に少しの我慢もさせないで、すぐにクーラーの部屋に入れて、汗もかかせない触れ合いをしすぎたり、転んだとき少しの打ち身・怪我にもかかわらず大げさに対応しすぎたり、お菓子が食べたいと要求があればさっと与えすぎたりしていませんか。
 このような触れ合いから熱に弱く・痛みにも耐えられず病気にかかりやすい体質にしていませんか。
暑さ・寒さに耐え、少しの痛みにも我慢でき、さまざまな環境の中で耐える体質になるように日常の生活での生き方から生きる力を育てたいものです。汗をかき、少しの怪我でもびくともしないたくましい体力を育てるために、乗り切るように大人の温かい見守る触れ合い、その中で「おおらかさ」をもって、多少のことに対して見守ると同時に怪我や病気に対しては正しい対応する知識や技術を身につけていたいものです。

 また、お菓子の袋が空けられないとき、苦労させないで手をかけていませんか。服の着脱が出来ないとき手をかけすぎていませんか。友達とけんかをするからと遊ぶことをとめていませんか。話すことができるのに一語だけですべて許していませんか。幼児期になっても可愛いから、まだできないだろうから、「危ない」という考えで子どもの能力を無視した過保護のしつけをしすぎていませんか。
 三歳の年少組の子どもに対して「紙」という一語だけで要求してきたときに「紙がどうしたの?」という問いかけをしていますか。このように困らせ上手な触れ合いをして適度の苦労を体験することが将来の行動に影響を与えることになります。適度な苦労する体験を家庭の状況にあわせて工夫する勇気を、大人がもつことも幼児期には大切といえます。

 さらに、友達関係で辛いとき、どうしていいかわからないとき、使いたいときに使いたいものがないときなど困ったときに乗り切ることができる知識・技術を身につける生き方を親子で悩み、工夫する態度を養うことを大切にしているかということになります。小学校・中学校そして社会に出たときに乳幼児期のしつけの答えが現れます。我慢する体力と気力を身につけさせ、困難に出会っても乗り切る知識と技術をもたせるために、親は子どもの対して自分が辛かったことを”どのように乗り切ってきたか”を具体的に話すことも重要となります。ただ「がんばれば誰でもできる」といった精神論だけでは子どもはまったく理解できません。 

園長  飯田和也

子どもに生きる力を気付かせるのが教育である。

 算数の計算が沢山できることや漢字が上手に書けることも教育には大切といえます。しかし、知識や技術を追い求め人生の生き方を、教えられない今までの教育を見直したいものです。それも乳幼児期からも教育を考え直さなければならないといえます。この時期から『生きる力』を育てるのが教育の基本のひとつではないでしょうか。


 乳幼児の「生きる力」を育てるには、我々大人が子どもたち一人ひとりに「貴方」は存在しているだけで周囲の人に希望を与え、生きる力や幸福感・充実感・生きている喜びを味あわせていることを伝える事が大切といえます。それには、「生まれて来てくれてありがとう、傍にいるだけでうれしい、見ているだけで幸せを味わうことができていますよ、貴方の匂いをかげるだけで幸せ、声を聞いているだけで嬉しい、手を握ることができるだけよかった」ということを伝えることです。手を握ったり、言葉をかけたり、積極的な触れ合いを通して愛しているということと貴方は生まれてきた事で周囲の人々を幸せにしている「光」 のような存在という思いがあって伝わるといえます。

 母親が自分の幼子と一緒にいることを幸せに感じることが出来れば、乳幼児は母親と一緒にいることが幸福といえます。親として大切なことが愛情を乳幼児に心から注ぐという態度をすることで、子どもは愛されているという感覚になります。しかし、母親ひとりではなかなか子育てはできません。育児は自分が住んでいる地域の中で、多くの人々に手がけられて育つことになります。周囲の様々な人によって叱られたり、褒められたり、受け入れられたりして育てられなければなりません。家庭だけで育つ事は出来ないのが子どもです。いたずらしたりして叱られたり、いいことをして褒められる事で、子どもは社会のルールを身につけ、たくましく育つことができます。
家庭だけでは、母親の育児不安やストレスがたまり、その影響から問題行動を子どもが起こしやすくなる場合もみられます。子育ては地域に迷惑をかけるものだ、そして、お互いの家庭が協力し合うことが大切だということも肝に銘じて生きていかなければなりません。

 乳幼児にとって大切なことは、自分の傍にいる事を幸福に感じる人の手で育てられることを感覚的に味わっています。 子どもと子どもを取り巻く周囲の人との愛情ある雰囲気の中で信頼感が育っていきます。

 「子どもは人を信じることができるように育てなければ成らない。子どもに限らず人は、人を信じることによってのみ、自分を信じることができるようになる」エリクソン
乳幼児は、基本的には積極的な保護と世話をしてくれる母親への信頼から生まれてきて良かったという感覚から相手を信頼することになります。そして周囲にいる父親や兄弟、祖父母へと関わりを広げ、地域の人々から幼稚園や保育園での先生や友達を信じることができるようになっていきます。どのような人間に育っていくかは、どのような人々との関わりによって大きく左右されます。自分を信じ、愛してくれる人との交わりがあれば相手を受け入れる生き方に結びつきます。豊かな人間関係は、相互に与え合うことであって一方的な関係ではありません。人生には様々な節目があります、入園・卒園・誕生日という節目の時、一年前を振り返って発達したところを見つけ、伸びたところから能力があることを信じてあげてください。信じられることから生きている喜びとなり、自分を信じることで生きていく力に結びつきます。このように生きる力を育てるのがこれからの教育のひとつといえます。 

園長  飯田和也

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